白棚鉄道
[Wikipedia|▼Menu]
番沢停留所(2006年8月撮影)専用道路を走るバス。
(番沢-温泉口 2009年9月撮影)

白棚線(はくほうせん)は、福島県白河市白河駅と同県東白川郡棚倉町磐城棚倉駅を結んでいた運輸通信省鉄道路線、およびこれを引き継いだジェイアールバス関東(JRバス関東)の自動車路線である。
鉄道路線

白棚線
概要
現況休止
起終点起点:白河駅
終点:磐城棚倉駅
駅数11駅
運営
開業1916年10月8日 (1916-10-08)
休止1944年12月11日 (1944-12-11)
所有者白棚鉄道→鉄道省運輸通信省
使用車両車両の節を参照
路線諸元
路線総延長23.3 km (14.5 mi)
軌間1,067 mm (3 ft 6 in)
電化全線非電化
テンプレートを表示

停車場・施設・接続路線(休止当時)
凡例


東北本線


0.0白河駅


1.3登町駅


4.5南湖駅


7.5関山口駅


11.0古関駅


12.4番沢駅


14.1磐城金山駅


15.8梁森駅


17.9三森駅


19.6金沢内駅


棚倉バイパス

国道289号
国道118号


(旧)国道289号


(旧)国道118号


23.3磐城棚倉駅


水郡線

交差する国道は、鉄道営業当時は
国道未指定、棚倉バイパスは未開通。
また、一部区間の線路跡が
国道289号に転用されている。


路線データ(休止時)

管轄:鉄道省

区間(
営業キロ):白河 - 磐城棚倉 23.3 km

軌間1,067 mm

駅数:11

複線区間:なし(全線単線

電化区間:なし(全線非電化

歴史
前史

東白川郡棚倉町は江戸時代には棚倉藩城下町であり郡役所警察署税務署が所在しており、東白川郡の中心地であったが、日本鉄道が開通して白河に停車場が設けられてからは、交通上不利な立場となり、町は衰退していった。

一方、金山村高野村には炭鉱があったことから、白河 - 棚倉間の鉄道敷設の計画者が次々とあらわれた。その嚆矢は1896年(明治29年)7月に出願された「白河炭鉱鉄道」であるが、1898年(明治31年)に出願は却下された[1][2]

その後は地元の有志たちが鉄道敷設運動を行ない、陳情もされるがなかなか実を結ばず、具体化されたのは当時鉄道王と呼ばれた雨宮敬次郎が登場してからである。雨宮は各地の有力者の協力のもと全国に軽便鉄道を建設し、1908年(明治41年)にそれらを統合して「大日本軌道」を設立することになるのであるが、ここ白河 - 棚倉間にも鉄道を敷設することを計画し[3]、地元の有力者とともに、1907年(明治40年)2月内務省に特許申請し、10月7日に白棚軌道に対し軌道特許状が下付された。ところが、道路上に軌道を敷設することから、道路幅員が人家のあるところで単線複線五間、それ以外の場所はそれぞれ三間と四間という条件であったものが、陸軍省から特許後の15日に「人家のあるところで単線六間半、複線七間等々の拡幅を開業後適当な時期におこなうように」との条件が加えられた。これには多額の資金負担を必要とすることから、特許有効期限延長申請が提出され、計画が中断した。

白棚軌道が暗礁に乗り上げているなか、1908年(明治41年)2月12日に棚倉鉄道に対し仮免許状が下付されている。区間は白河町 - 棚倉町間[注釈 1]、西白河郡金山村 - 同郡同村白河炭鉱間、軌間762 mm[4]、発起人総代は白河炭鉱所有者の岡野磧である。資材は軌間762 mmから1,067 mm改軌工事中の青梅鉄道から調達することとし、用地買収交渉や株式応募は行われたようだが、石井村の大地主が計画から降り、1909年(明治42年)には「有効期限内ニ本免許ノ申請ヲ為ササル」という理由で免許が失効する[5]。白棚軌道も打開策を見いだせず、特許有効期限延長申請が再三にわたったため却下され、同年6月1日に特許状が返納され、計画は実現しなかった。

1911年から1912年にかけて5社の出願がされた。1911年11月に出願された白棚軽便鉄道は、発起人代表が金山の金鉱山主の西田仁三郎。他に白棚軌道の発起人、棚倉鉄道の発起人が名を連ねた。1911年10月に出願された白河鉄道(1)は大日本軌道の小澤信之輔、大淵龍太郎や棚倉鉄道発起人の岡野磧が発起人にいた。なお雨宮は1911年1月に死亡している。1911年5月に出願された東北炭鉱[6]は、本社東京鉱業部東白川郡高野村瀬ヶ野にあったが、出願書に添えられた福島県の意見書によれば「休眠会社であり、事業成功の見込み無し」とされていた。1911年12月に出願された白河鉄道(2)は、東北炭鉱の専務取締役の四方常次郎が発起人の中にいた。最後に出願された白河鉄道(3)には、発起人に福島人や炭鉱業者も参加しておらず、投機資本家[注釈 2]で構成しているとみられている。1912年6月になり、鉄道院は東北炭鉱以外の4社の合同を県知事に命令することになった。しかし交渉はうまくいかず、1913年6月に地元資本家の多数いる白棚軽便鉄道に免許状が下付され、他の3社は出願を却下されることとなった。
白棚鉄道の成立

免許状を下付された白棚軽便鉄道は、1914年春から株式募集活動を始め、6月17日に白河町で会社設立総会を開き定款、役員を決定した。なお発起人代表の西田は1913年1月に発起人から脱退している。地元有志たちからは須賀川出身の立憲国民党(のち憲政会)代議士、愛国生命保険[7]社長の鈴木万次郎[8]が推されていたが、鈴木が福島市の土建業者で福島電燈他多数の会社の重役を務める大島要三[注釈 3]を推したため、大島が社長に就任した。この頃に白棚軽便鉄道から白棚鉄道に改称した。

1914年6月20日、工事施工認可申請を行ない(認可期限の2日前)、まもなく測量に着手し、用地買収に着手した。沿線住民は鉄道建設に協力し用地買収は順調に進められ、9月までに測量が終了し、用地買収は11月30日までに全部終了した。1915年3月18日工事施工申請を行ない工事に着手。翌年には国有鉄道(鉄道院)線との連絡上、軌間を762mmから1067mmに変更することにし、資金の不足分は愛国生命の融資によった。そして1916年10月8日に白河町 - 金沢内間が開業し、続いて11月29日に金沢内 - 磐城棚倉間が開業した。軌条、車両とも鉄道院からの払下げであった。また梁森駅から白河炭鉱まで引込線を開通させた(0.77哩)[注釈 4]。白河炭鉱の所有者は取締役の安川栄次郎である。1918年になり白河鉱業合資会社を設立し、大島と鈴木が出資社員になった[9]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:72 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef