白柳 秀湖(しらやなぎ しゅうこ、1884年1月7日 - 1950年11月9日)は、日本の小説家、社会評論家、歴史家。 静岡県引佐郡気賀町(現・浜松市浜名区細江町)生まれ[1]。本名は武司。15歳で書生として日本郵船重役宅に住み込み[1]、郁文館中学校で島崎藤村を愛読し文学に興味をもち[2]、早稲田大学文学部哲学科に進学。在学中から堺利彦の社会主義思想に影響を受け、1904年加藤時次郎の直行団に加入、消費組合運動の機関誌である月刊「直言」に協力[1]。1905年中里介山らと火鞭会を創立し、機関誌「火鞭」を創刊(1905年9月-1906年5月。9号)、プロレタリア文学運動の先駆をなす[2]。1907年大学卒業後、隆文館編集記者となり、麻布三連隊に志願入隊し[1]、山手線に勤務する青年を主人公とした小説「駅夫日記」を『新小説』1907年12月に発表、初期社会主義文学を代表する作品として知られる。1910年の大逆事件後、杉山茂丸が出資する週刊誌『サンデー』で同僚だった山口孤剣とともに出獄した堺に最初の売文の仕事を与えており[3][4]、これをきっかけに堺がつくった売文社の機関紙「へちまの花」の創刊に関わったが、大逆事件のあと社会主義思想と縁を切り、文学も離れ、社会評論家、歴史家として活動した。『実生活』誌を発行。戦時中は日本文学報国会理事を務めた。 1948年3月30日、著書『太平洋争覇時代』(慶応書房、1941年)を理由として公職追放の仮処分を受ける[5]。 1950年11月9日、糖尿病のため品川区大井滝王子町の自宅にて死去[6]。墓は多磨霊園(25-1-29-1)にあり[2]、故郷の細江町に白柳秀湖文学碑が建つ[7]。
人物
出典^ a b c d 忘れられた在野の歴史評論家
^ a b c ⇒白柳秀湖 コンサイス日本人名事典歴史が眠る多磨霊園
^ 田中英夫『山口孤剣小伝』344頁、花林書房、2006年
^ 黒岩比佐子『パンとペン―社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い』第六章「週刊『サンデー』にて第一の売文」、講談社, 2010年
^ 白柳夏男『戦争と父と子 白柳秀湖伝』日本商工出版、1971年9月15日、188頁。NDLJP:12262307