白木屋_(デパート)
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背景に白木屋が描かれている[1]明治時代の白木屋。白木屋を株式会社に改組し、初代社長を務めた十代目大村彦太郎

白木屋(しろきや)は、東京都中央区日本橋1丁目に存在した江戸三大呉服店のひとつで[2]、かつ日本の百貨店の先駆的存在のひとつである。

江戸時代創業だったが、昭和に入り、東急グループ傘下となった。1967年(昭和42年)に東急百貨店と合併し、商号・店名ともに「東急百貨店日本橋店」へと改称した。その後、1999年(平成11年)1月31日に閉店[3]、336年の歴史に幕を閉じた。跡地にはコレド日本橋が建設され、2004年(平成16年)3月30日に開業した[4]

日本国内では(法人は別として)商号は消滅したが、アメリカ合衆国ハワイ州ホノルルアラモアナセンターでは、かつてのアラモアナ店が「シロキヤ・ホールディング・LLC」として2020年まで営業を続けていた。
歴史
材木商から江戸三大呉服店へ

初代大村彦太郎可全が、慶安年間に[5]京都の寺の内に材木商として白木屋を開いたのが始まりである[6]

初代大村彦太郎の母方の河崎家は近江国の材木商であり、その商売を手伝ったあと、白木屋の屋号をもらって独立して開いたものであったが、独立・開業した直後は白木屋を名乗っていなかったとされている[6]

また、初代大村彦太郎の父である大村道与も同様に河崎家の支援を受けて京都で「菊屋」の名で材木商を営んでいたとされており、その再興を図る形にもなっていた[6]

この京都の白木屋は材木商の傍らで木綿類や日用品の販売も手がけており[6]、このことがのちの呉服店へつながることになった。

初代大村彦太郎は江戸の繁華街へ出て商売を行うことに早くから強い意欲を燃やし、寛文2年8月24日(1662年10月6日)に日本橋通り2丁目に間口一間半の小間物商としての白木屋を開いた[6]

開店から3年後の寛文5年(1665年)に当時の一等地であった日本橋通り1丁目に移転し、近隣を買収しながら徐々に店舗の拡張を進めていった[6]

また、寛文8年(1668年)には羽二重地の販売を始め、延宝6年(1678年)には縮緬毛氈等の販売も手がけるようになり、延宝7年(1679年)に晒木綿、天和元年(1681年)に木綿羽織地に着尺麻と徐々に取り扱い品目を拡張し、呉服太物商の仲間入りを果たした[6]

その後、貞享元年(1684年)には店を拡張したほか[6]、貞享3年(1686年)には高級品とされていた郡内縞を売り出し[6]宝永元年(1704年)には贅沢品の毛織物を含めた一般呉服物を売出すなど江戸の町人文化の開花に合わせて販売品目を広げ[6]、越後屋(現・三越)や大丸屋(現・大丸[注釈 1]と並んで江戸三大呉服店のひとつに数えられる大店に成長した[2]

享保期(1716-1736)以後、数度の類焼、洪水、飢饉に遭遇したが、宝暦元年(1751年)には市ヶ谷店を開いた[7]。しかし、天保の改革の奢侈禁制により呉服店の繁栄も低迷し、白木屋も幕末期より京都本店・江戸店ともに莫大な借財を負って経営困難に陥り、京都から千両もの資金援助を仰いだ市ヶ谷店は慶応4年(1868年)に閉店、続いて名古屋店、富沢町店も閉店した[7]
百貨店への転換明治時代の店内。それまでの座売りを廃止し陳列式に切り替えた。(小川一真『東京風景』1911年より)

1878年(明治11年)に建設された土蔵造り2階建ての店舗を増改築し、1903年(明治36年)10月1日に和洋折衷の3階建ての店舗として新装開業した[6]

この新装開業の際、木馬やシーソーなどを備えるとともに蕎麦屋や汁粉店、寿司店などの飲食店も出店する遊戯室を設けており、販売方式の面で百貨店化するとともに、飲食店を併設するという面でも百貨店の先駆けとなった[6]

この新装開業に際して電話受付係として女性店員を採用したほか、1911年(明治44年)10月1日に一部5階建てに増築して新装開業した際に伝統的な呉服店の営業形態だった座売りを廃止して全面的に陳列式に切り替える、少女音楽隊が常設されて演奏を行うなど、さまざまな新機軸を他の百貨店に先駆けて導入している[6]
関西での店舗展開

1893年(明治26年)には大阪・心斎橋筋に大阪出張店を設置して大阪進出を図り[6]、1920年(大正9年)11月1日に阪神急行電鉄梅田駅ビル1階に182m2の梅田出張店を開業し[8]、1921年(大正10年)10月1日には心斎橋筋の出張店を閉鎖する代わりに堺筋備後町の角に3,075坪の大阪支店を開設して東京と大阪で百貨店を2店舗展開するようになり、この大阪支店では床面を木タイル張りにして日本の百貨店として初めて一般客の土足入場を行った[6]

このうち、阪急電鉄から招致されて出店した梅田出張店は食料品や日用雑貨の販売を行って好調な売り上げを上げた[9]。この出店契約は売上歩合制とすることでその売上実績を把握し[10]ターミナルデパートの経営成功するかどうかを判断する材料とすることを狙った小林一三の考えによるものであったため、期間満了を理由として契約が解除され[10]、1925年(大正14年)4月30日限りで閉鎖し返還することになった[8]

梅田阪急ビルには同年6月1日に2・3階に[11]自社直営の食料品や生活雑貨中心のスーパーに近い形態[12]の阪急マーケット[11]、4・5階に直営の阪急食堂を移設して開業し[13]、1929年(昭和4年)4月15日には鉄道会社直営=電鉄系百貨店として初の阪急百貨店を開業しており[11]、ターミナルデパートにつながるものとなった。

1923年(大正12年)5月15日には神戸市湊川の神戸実業銀行内に神戸出張店を開設し、関東大震災で被災した日本橋本店の営業再開までの間には大阪と神戸に本店から58名を転勤させて営業力の強化を目指すなど関西での営業にも力を入れた[6]

しかし、神戸出張店の業績が伸び悩んで1927年(昭和2年)3月に撤退する際に[6]約16万円という当時としては巨額な損失を出した[9]ほか、大阪支店も繁華街が堺筋から、地下鉄御堂筋線を伴って開通した御堂筋沿いに移ってしまい、赤字が続いた。このため、1932年(昭和7年)7月に大阪支店も閉鎖して関西から全面的に撤退することになった[14]
関東大震災での本店の被災

1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災で、本店が全壊する大きな被害を受けた[6]

震災から2か月後の同年11月1日には日本橋本店の仮建築を完成させて再開するなど、早期の再開を目指した[6]

ところがその後、東京市の復興計画の遅れから日本橋本店の区画整理の決定が遅くなったため仮建築の期間が長期化し、業績の低迷が長期化することになった[6]

そのため、1926年(昭和元年)と1927年(昭和2年)の2年連続で赤字に陥るなど経営に致命的な打撃を受けることになった[9]
分店・出張店による多店舗展開

白木屋は先述の通り、1920年(大正9年)11月1日に阪神急行電鉄梅田駅ビルや東京・丸の内の海上ビル(現・東京海上火災ビル)にも丸の内出張所を開設するなど早くから小型店舗の展開を進めていた[6]

1923年(大正12年)3月には東京・丸の内の丸の内ビルヂング(現・丸の内ビルディング)の竣工に伴って同ビル内に丸の内出張所を開設したほか、同年5月15日に神戸実業銀行に出張所を出店するなど関東大震災前から積極的な多店化が進められていた[6]

また、1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災の直後も、同月15日に東京・丸の内の丸ビル出張店の営業を再開するとともに同月20日から一階正面左角の三菱商事跡の一角を借り受けて新営業所を開設したほか、九段下牛が淵公園前や四谷塩町停留所前に出張店を開設して日用雑貨などの販売を行って好調な売り上げを上げた[6]

1926年(大正15年)に丸ノ内と四谷出張店を閉店したほか、阪神電気鉄道梅田駅に出店した出張店なども短期間で閉鎖されるなど、店舗の閉鎖も少なくなかった[9]

日本橋本店の再建が遅れることになったため、業績を維持するには仮建築での営業だけでは不可能な状況となっていた[9]

そして、2年連続で赤字に陥ったこともあり、1928年(昭和3年)2月の日本橋本店の本建築による再建第1期工事の落成に前後して分店と呼ぶ小型の店舗をチェーン展開し始めることになった[9]

1927年(昭和2年)3月に神戸出張店を閉鎖した際に[6]約16万円という当時としては巨額な損失を出していたため[9]、不動産を取得して出店することなどの危険性も痛感させられていた[9]

そのため、まず実験的に池上電気鉄道(現・東急池上線)のターミナル駅ビルを賃借して約3万円を投じ五反田分店を出店して、分店を出店することの成否を1か月間で判断することになった[9]

この五反田分店が順調に立ち上がったことから分店の多店舗展開が進められることになった[6][9]

1929年(昭和4年)2月に大森分店を出店、同年3月に日本橋通2丁目に売店を開設したほか、1930年(昭和5年)に東京では錦糸堀や神楽坂、関西では京都に分店を出店している[6]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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