白木屋火災
[Wikipedia|▼Menu]
歌川広重「名所江戸百景」に描かれた幕末期の白木屋。江戸時代から同じ場所で営業(現・コレド日本橋[1] 明治時代の白木屋 1919年に株式会社に改組し、初代社長に大村彦太郎10代(1869?1927)が就任

白木屋(しろきや)は、東京都中央区日本橋一丁目に存在した江戸三大呉服店の一つで[2]、かつ日本の百貨店の先駆的存在の一つである。かつて日本を代表した百貨店の一つ。

法人自体は現在の株式会社東急百貨店として存続しており、1967年(昭和42年)に商号・店名ともに「東急百貨店日本橋店」へと改称した。その後、売れ行き不振のため1999年(平成11年)1月31日に閉店し[3]、白木屋以来336年の永い歴史に幕を閉じた。跡地にはコレド日本橋が建設されて2004年(平成16年)3月30日に開業した[4]
目次

1 概要

1.1 材木商から江戸三大呉服店へ

1.2 百貨店への転換

1.3 関西での店舗展開

1.4 関東大震災での本店の被災

1.5 分店・出張店による多店舗展開

1.6 火災・出店規制・戦争などによる営業の蹉跌

1.7 第2次世界大戦後の復活から東急傘下へ


2 沿革

3 白木観音・白木名水

4 白木屋大火

4.1 白木屋ズロース伝説


5 白木屋乗っ取り騒動

6 閉店セール

7 過去に存在した店舗

7.1 百貨店

7.2 小型店(分店・出張店)

7.2.1 東京

7.2.2 関西


7.3 関係者が出資して当社方式で運営されたもの


8 関連項目

9 脚注

10 参考文献

11 参照

12 外部リンク

概要
材木商から江戸三大呉服店へ

初代大村彦太郎可全が、慶安年間に[5]京都の寺の内に材木商として白木屋を開いたのが始まりである[6]

初代大村彦太郎の母方の河崎家は近江の国の材木商であり、その商売を手伝った後、白木屋の屋号をもらって独立して開いたものであったが、独立・開業した直後は白木屋を名乗っていなかったとされている[6]

また、初代大村彦太郎の父である大村道与も同様に河崎家の支援を受けて京都で「菊屋」の名で材木商を営んでいたとされており、その再興を図る形にもなっていた[6]

この京都の白木屋は材木商の傍らで木綿類や日用品の販売も手掛けており[6]、このことが後の呉服店へ繋がることになった。

初代大村彦太郎は江戸の繁華街へ出て商売を行うことに早くから強い意欲を燃やし、寛文2年8月24日(1662年10月6日)に日本橋通り2丁目に間口一間半の小間物商としての白木屋を開いた[6]

開店から3年後の寛文5年(1665年)に当時の一等地であった日本橋通り1丁目に移転し、近隣を買収しながら徐々に店舗の拡張を進めていった[6]

また、寛文8年(1668年)には羽二重地の販売を始め、延宝6年(1678年)には縮緬・毛氈・紗・綾等の販売も手掛けるようになり、延宝7年(1679年)に晒木綿、天和元年(1681年)に木綿羽織地に着尺麻と徐々に取り扱い品目を拡張して呉服太物商の仲間入りを果たした[6]

その後、貞享元年(1684年)には店を拡張したほか[6]、貞享3年(1686年)には高級品とされていた郡内縞を売り出し[6]宝永元年(1704年)には贅沢品の毛織物を含めた一般呉服物を売出すなど江戸の町人文化の開花に合わせて販売品目を広げ[6]、越後屋(現・三越)や大丸屋(現・大丸)と並んで江戸三大呉服店の一つに数えられる大店に成長した[2]
百貨店への転換 明治時代の店内。それまでの座売りを廃止し陳列式に切り替えた。
小川一真『東京風景』1911年より)

1878年(明治11年)に建設された土蔵造り2階建ての店舗を増改築して、1903年(明治36年)10月1日に和洋折衷の3階建ての店舗として新装開業した[6]

この新装開業の際に、木馬やシーソーなどを備えると共に蕎麦屋や汁粉店、寿司店などの飲食店も出店する遊戯室を設けており、販売方式の面で百貨店化すると共に、飲食店を併設するという面でも百貨店の先駆けとなった[6]

その他にも、この新装開業に際して電話受付係として女性店員を採用したほか、1911年(明治44年)10月1日に一部5階建てに増築して新装開業した際に伝統的な呉服店の営業形態だった座売りを廃止して全面的に陳列式に切り替えたほか、少女音楽隊が常設されて演奏を行うなど様々な新機軸を他の百貨店に先駆けて導入している[6]
関西での店舗展開

1893年(明治26年)には大阪・心斎橋筋に大阪出張店を設置して大阪進出を図り[6]、1920年(大正9年)11月1日に阪神急行電鉄梅田駅ビル1階に182m2の梅田出張店を開業し[7]、1921年(大正10年)10月1日には心斎橋筋の出張店を閉鎖する代わりに堺筋備後町の角に3,075坪の大阪支店を開設して東京と大阪で百貨店を2店舗展開するようになり、この大阪支店では床面を木タイル張りにして日本の百貨店として初めて一般客の土足入場を行った[6]

このうち阪急電鉄から招致されて出店した梅田出張店は食料品や日用雑貨の販売を行って好調な売り上げを上げたが[8]、この出店契約は売上歩合制とすることでその売上実績を把握し[9]、ターミナルデパートの経営成功するかどうかを判断する材料とすることを狙った小林一三の考えによるものであったため期間満了を理由として契約が解除され[9]、1925年(大正14年)4月30日限りで閉鎖し返還することになった[7]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:142 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef