白子港
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白子港 (2009年3月撮影)上空から見た白子港(国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成)

白子港(しろここう)は三重県鈴鹿市にある、三重県が管理する地方港湾

金沢川(かなさいがわ)のもたらす土砂や伊勢湾沿岸流によって形成された砂嘴(さし)が堤防のはたらきをなす天然の良港として古くより利用されてきた[1]。現在の港は太平洋戦争中に進出した大日本帝国海軍の整備した軍港が基盤となっている[2]

ここでは北側に隣接する、鈴鹿市の管理する第2種漁港である白子漁港(しろこぎょこう)についても記述する。
概要

鈴鹿市南東部の白子にある港湾。本来1つの港であったが、法律上は1951年昭和26年)以降、白子港と北側の白子漁港に区別され、管理者も白子港は三重県[3]、白子漁港は鈴鹿市[2]と分かれている。しかし実際にはほぼ同一の港と見なされ、2007年平成19年)度の統計では、白子港が扱う貨物の全量が水産物であった[3]

白子港の港湾区域は白子一丁目の砂嘴の北西端を中心とする内のうち、水面に相当する部分200haである[3]

沿岸ではイカナゴ(コウナゴ)やイワシ漁が盛んであり[4]、ほかにも以下のような魚介類の水揚げがある。

カタクチイワシ

アナゴ

ノリ

アサリ

港湾区域

2つの港湾区域が設定されている。

江島地区

鈴鹿市江島町・東江島町・江島本町。港湾の北部に当たる。



前浜地区

鈴鹿市白子一丁目・
白子町。港湾の南部に当たる。


歴史
港の始まり

古代より神戸(かんべ)[注 1]外港として人や物の輸送に利用され、平安時代には伊勢平氏水軍「古市の白児党」の根拠地となっていた。白児党の名は白布を身に付けて訓練に励んだことに由来するという[2]平凡社の『三重県の地名』によれば、古市とは白子の古名であるとされ[5]、白児党が白子の語源であるという説もある[6]

室町時代には既に繁栄を築いていたことが分かっており、『山科家礼記』の文明12年11月15日1480年11月16日)の記録には白子港を出入りする船から入港料金を徴収していたことを窺わせる「伊勢国栗真帆別津料」という文字が見いだせる[5]。また度会郡大湊(現・三重県伊勢市大湊町)の入港記録『船々聚銭帳』には永禄8年(1565年)に白子から3隻の船が来港したと記されている[6]。更に、本能寺の変に際して徳川家康から[7]三河へ脱出するにあたり、川南村[注 2]の小川孫三の船で白子港から出港したとされている[8]。ただし出港地については、若松(現・鈴鹿市若松町)や四日市などの異説もあり、家康ゆかりの地としてうまく宣伝できた白子が後に繁栄することに成功したと考えられている[7]
港の隆盛

江戸時代には紀州藩代官所や紀州侯別邸、目付役所、物頭役所が白子に置かれ、伊勢商人もここを重視した[9]。伊勢商人は伊勢国尾張国三河国木綿輸送を確保・統制するため江戸で大伝馬町組と白子組を結成し、白子の積荷問屋廻船問屋を支配した[9]天明年間から文化年間の白子組の千石船数は25隻に及んだという[9]。またこれら3国以外にも大和国など内陸から木綿が関東地方へ送られ、関東からは九十九里浜干鰯雑貨が届けられた[10]。白子の港は遠浅で千石船は沖への停泊を余儀なくされ、決して使い勝手の良い港ではなかったが、この港が発展できたのは紀州藩と伊勢商人によるところが大きい[11]。特に白子組の竹口家は紀州藩の御用旗や提灯を掲げて江戸へ入港することを許されていた[10]。港の維持には紀州藩からの補助金と、入港税で賄われた[12]

歴史上有名な事件としては、大黒屋光太夫ロシア漂着がある。光太夫以下16名を乗せた神昌丸は天明2年(1782年)に江戸に向けて白子から出港したが、暴風雨に巻き込まれ[13]アリューシャン列島アムチトカ島まで流されてしまった。光太夫はシベリアを横断して当時の首都サンクトペテルブルクまで行き、ロシア皇帝エカチェリーナ2世から帰国の許しを得た[13]寛政4年(1792年)にアダム・ラクスマンに伴われて根室へ上陸、10年ぶりに日本への帰国がかなった。この事件を題材としたのが、井上靖歴史小説おろしや国酔夢譚』である。
衰退と転換

栄華を極めた白子港が衰退した直接の原因は安政の大地震であるとされている[14]町村制の施行を翌年に控えた1888年(明治21年)に奄芸河曲両郡が三重県庁に提出した『町村制実施ニ係ル取調上申書』には

「安政年度ノ震災以来潮路ヲ変シ、堤防ヲ崩壊スルアリ」

とあり、安政の大地震による堤防の破壊が衰退の引き金となったことが分かる[14]。更に明治維新後の紀州徳川家からの援助や港の税収がなくなったことが決定打となったとある[14]。ただし安政の大地震の発生前より、尾張・三河で白子の支配を受けない廻船が現れたり、株仲間解散令による木綿屋の解体などの白子港存立基盤が揺らぎ始めていた[15]。こうして衰えた白子港に代わって、四日市港幕末から台頭し、伊勢湾における最大の商業港の座を奪われた[16]

1904年明治37年)、当時の栖原七良兵衛白子町長によって新しい防波堤が築かれ、以降は漁港としての活路を見いだしていく[3]


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