白塚町
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .pathnavbox{clear:both;border:1px outset #eef;padding:0.3em 0.6em;margin:0 0 0.5em 0;background-color:#eef;font-size:90%}.mw-parser-output .pathnavbox ul{list-style:none none;margin-top:0;margin-bottom:0}.mw-parser-output .pathnavbox>ul{margin:0}.mw-parser-output .pathnavbox ul li{margin:0}日本 > 三重県 > 津市 > 白塚町

白塚町
町丁
津市立白塚小学校
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}白塚町白塚町の位置
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度45分32.6秒 東経136度31分45.1秒 / 北緯34.759056度 東経136.529194度 / 34.759056; 136.529194
日本
都道府県 三重県
市町村 津市
地域津地域
面積[1]
 ? 合計2.718857067 km2
標高2.6 m
人口(2019年(令和元年)6月30日現在)[2]
 ? 合計8,020人
 ? 密度2,900人/km2
等時帯UTC+9 (日本標準時)
郵便番号514-0101[3]
市外局番059(津MA[4]
ナンバープレート三重
自動車登録住所コード24 500 1363[5]
※座標・標高は津市役所白塚出張所(白塚町5205)付近。

白塚町(しらつかちょう)は、三重県津市町名、また三重県河芸郡に存在した

町名は白い砂浜を意味する「白州」(しらす)が「白須賀」(しらすか)になり、さらに転訛したものとされる[6][7]。元は純粋な漁業地域であったが、住宅地化が進行した結果、サラリーマン世帯が多くなった[8]
地理

津市の北東部、平成の大合併以前の津市の北東端にあたる[8]伊勢湾西岸のほぼ中央に位置し、地形的には志登茂川下流左岸の平地[6]、湾岸の浜堤上にある[7]

町の西部を近鉄名古屋線が南北を貫き、北部に白塚駅が設置されている[8]。伝統的な町の中心集落は南部にあるが、沿岸部の納屋集落、白塚駅北側の新興住宅地などもある[8]

伝統的な集落は辻垣内など7つの垣内に分かれており、それぞれの垣内が地蔵堂を持ち、念仏講(通夜講)を結成する[9]

北で河芸町影重(かわげちょう・かげしげ)、西で河芸町中瀬(かわげちょう・なかぜ)・栗真小川町(くりま・こがわちょう)・栗真中山町(くりま・なかやまちょう)、南で栗真町屋町(くりま・まちやちょう)に接する。

東は伊勢湾に面する。

海洋 - 伊勢湾(豊津浦)

通称地名

現代の白塚町では、自治会などの住民組織に加え、民生委員の担当地区は下記の通称地名の町割り単位で設定されている。各町を示す標識は特になく、その正確な範囲を現地で知ることは難しい。

西町1丁目 - 南西部

西町2丁目 - 南西部

西町3丁目 - 南西部

南町 - 南部

住吉町

栄町

本町 - 公民館付近

中の町

東浜町 - 南東部

三の宮町

旭町 - 白塚郵便局付近

西

口起



小山


新町1丁目 - 白塚駅東側

新町2丁目 - 白塚駅東側

新町3丁目 - 白塚駅東側

新町 - 白塚駅東側



北東

北西


白塚団地 - 白塚駅北西

美松園 - 近鉄白塚体育館北側

歴史
近世まで(-1868)

白塚の地名が文献で確認できるのは、南北朝時代のことである[6]応安元年(1368年)の『栗真荘内熊野田三町沙汰日記』に兵衛殿という白塚の人が窪田郡内の熊野社領の作人であるという記録がある[6][7]。また白塚町内に小字「九門久」(くもんきゅう)があり、公文給田を意味すると推察される[7]。このように白塚は中世荘園支配を受けていたと考えられるが、詳細は不明である[7]。時代は下り、永享5年3月22日ユリウス暦1433年4月12日)に伊勢参宮の帰路、安濃津から豊久野(現・芸濃町椋本)へ向かう途中で「しらつかの松」を見た尭孝は次のような短歌を詠んでいる[6][7]

「霞立 緑の末と ひとつにて 明行空の しらつかのまつ」

室町時代後期に、白塚は港として発達し、文明12年(1480年)には長野氏方の賀藤氏が新警固を白塚と志摩国泊・大里(現・鳥羽市鳥羽)に設置した[6][7]。これに対して伊勢神宮は廃止を求めたが、分部氏も若松(現・鈴鹿市若松地区)に新警固を置こうとしたため、内宮禰宜の荒木田氏経は長野氏に対して強い抗議を行ったという[6]。なお、賀藤氏と関係すると見られる加藤姓を名乗る家庭が現代の白塚町でも多く存在する[9]

江戸時代には伊勢国奄芸郡白塚村であり、当初は伊勢上野藩の配下にあったが、慶長18年(1613年)に伊勢上野藩と津藩相給となり、元和5年(1619年)から紀州藩と津藩の相給となった[6]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:91 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef