白土三平
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本名岡本(おかもと) 登(のぼる)
生誕 (1932-02-15)
1932年2月15日
東京府
死没 (2021-10-08) 2021年10月8日(89歳没)
東京都
国籍 日本
職業漫画家
活動期間1957年 - 2021年
ジャンル劇画
代表作『忍者武芸帳 影丸伝
サスケ
カムイ伝
受賞第4回講談社児童まんが賞
(『シートン動物紀』『サスケ』)
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白土 三平(しらと さんぺい、本名:岡本 登(おかもと のぼる)、1932年2月15日 - 2021年10月8日)は、日本男性漫画家東京府出身。A型。『忍者武芸帳 影丸伝』『サスケ』『カムイ伝』など忍者を扱った劇画作品で人気を博した。

父親はプロレタリア画家岡本唐貴。妹は絵本作家岡本颯子。弟の岡本鉄二(1933年 - 2021年10月12日)は「赤目プロ」で作画を担当、岡本真は「赤目プロ」マネージャーを経て銀杏社を設立。
経歴
生い立ち

1932年東京府豊多摩郡(後の東京市杉並区)に出生。幼少時は画家をしていた父の活動により神戸や大阪の朝鮮人部落のそばなどを転々とする。

1938年春、大阪から東京に戻る。1944年、私立練真中学校(旧制)に入学。直後に戦争が激化したため、長野県小県郡中塩田村(現上田市八木沢駅付近)に一家で疎開し、旧制長野県上田中学校(現長野県上田高等学校)に通う。この旧制中学にいた白土牛之助という軍人の苗字が、後にペンネームの由来となる[1][2]特高警察の拷問の後遺症で脊椎カリエスを病んでいた父に代わり、山仕事や力仕事で家計を支える。1年ほど塩田で過ごした後、真田へ引越しさらにその後、西塩田に引越した。

1946年、東京に戻る。白土の弟・真は近くの被差別部落東京都練馬区)に住んでいた荻原栄吉(後の部落解放同盟練馬支部長)と同級生で仲がよく、真は荻原の家業を手伝ったりもしたため、荻原は「『カムイ伝』など白土三平の漫画には練馬での体験が影響しているのかと思うことがある」と述べている[3]
紙芝居の制作者として

1947年頃に手塚治虫の作品を知る。のち、経済的理由により練真中学(旧制)を3年の途中で中退。父の知人の金野新一のアトリエで、山川惣治作の紙芝居の模写・彩色の仕事を手伝い始める。

1951年、金野の指導の下『ミスタートモチャン』という紙芝居を制作。当時はノボルというペンネームだった。以後数年間このシリーズの紙芝居を手がけた。

1955年、紙芝居仲間からの紹介をうけて東京都葛飾区金町に移り、仲間と共同生活を始め、紙芝居『カチグリかっちゃん』を描く。白土は遊びに来る近所の子供らから「イチ二の三チャン」という愛称で親しまれ、これが「三平」の名の元になる[4]。また、この時期、黒川 新というペンネームも使用している。この年共同生活者であった瀬川拓男が人形劇団「太郎座」を立ち上げ、白土も舞台背景の制作で参加。また加太こうじの紹介で機関紙に4コマ漫画の連載を行なう[注 1]

1956年、板橋に転居し、「太郎座」のメンバーの一人だった李春子(通名・小林まゆみ)と結婚。


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