しらとり ちかお
白取 千夏雄
生年月日1965年7月17日
没年月日 (2017-03-17) 2017年3月17日(51歳没)
出身地北海道函館市宝来町
学歴国際アニメーション研究所卒業
職業漫画編集者
所属青林堂(1984年 - 1997年)
→ツァイト(1997年)
→フリー(1997年 - 2017年)
ジャンルガロ系
活動期間1984年 - 2017年
活動内容漫画編集、ライター、ウェブサイト構築、専門学校・大学講師
妻やまだ紫
公式サイト
⇒白取特急検車場
主な作品
編集
すべて青林堂刊
『月刊漫画ガロ』(1984年 - 1997年)
『4コマガロ』(1988年 - 2000年)
『デジタルガロ』(1997年)
『豚小屋発犬小屋行き』(根本敬)
『pH4.5グッピーは死なない』(林静一)
『Palepoli』(古屋兎丸)
著作
『全身編集者』(おおかみ書房)
表示
白取 千夏雄(しらとり ちかお、1965年7月17日[1] - 2017年3月17日)は、日本の漫画編集者。元青林堂『ガロ』副編集長。妻は漫画家のやまだ紫で年齢は17歳年上である。 1965年北海道函館市宝来町生まれ。1984年に上京して国際アニメーション研究所に入学[2]。その後、講師として登壇していた『月刊漫画ガロ』初代編集長の長井勝一に誘われ、同年11月12日から青林堂にアルバイトとして入社し、翌1985年4月から正社員となる[2][3]。『ガロ』時代は主に男性作家、特に根本敬を長く担当し、ゴキブリの死体を張り付けた原稿を印刷所に持って行って怒られたことがある[4]。また、この頃から持ち込みの応対にもあたり、血で描かれた原稿に強烈な印象を受ける[5][6]。 元々漫画家志望で「どんな絵柄でも模写できる」ほど手先が器用だったことから図案文字などレタリングもこなし、1990年代初頭には『ガロ』のDTP化を行う[7]。新人としてはねこぢる、古屋兎丸、福満しげゆきなどを発掘する。 1997年、青林堂から親会社ツァイトに移籍[8]。山中潤社長体制下において『ガロ』副編集長と『デジタルガロ』編集長を兼任し積極的にデジタル路線を進めるが、手塚能理子ら編集部員の反発を招き、青林堂の分裂と『ガロ』の休刊を招いた。手塚ら退社組が青林工藝舎を設立した後も青林堂に残り残務処理に当たった。 その後、大和堂の蟹江幹彦が青林堂の経営を引き継ぎ、2000年の『ガロ』復刊にあわせて白取は自身が創設した読者投稿コーナー「4コマガロ
目次
1 経歴
2 人物
3 著書
4 外部リンク
5 参照
経歴
2005年に白血病の宣告を受け、2007年よりやまだ紫と共に夫婦で京都に移住。2008年より京都精華大学にて非常勤講師を務める[10]。また、日本ジャーナリスト専門学校講師に就任したが、病状の悪化に伴い休職。2009年には妻のやまだ紫に先立たれる。
2015年にメルケル細胞癌併発。廓清手術、放射線照射、化学療法を受けるが転移。2017年3月17日午後8時頃死去[11][12]。
2019年5月20日、白取の半生記・半世紀を綴った自伝『全身編集者』が劇画狼の編集により独立系出版社のおおかみ書房より刊行[13][14]。
人物
長井勝一に薫陶を受けた最後の弟子であると自称し、青林工藝舎を率いる手塚能理子と共に、青林堂の系譜を受け継ぐ人物であった[15]。ただし『ガロ』休刊および青林堂の分裂騒動の経緯から手塚とは確執があったため「青林工藝舎が青林堂の後継者である」という見方には否定的だった[15]。
『ガロ』時代は古屋兎丸などを担当し、古屋が『ガロ』に連載していた4コマ漫画『パレポリ』にも作中に白取が登場する。ちなみに白取が制作した青林堂版『パレポリ』の初版本はあまりに豪華すぎたため、一冊売るたびに赤字になったという経緯が再版本で語られていた[16]。また古屋が『ガロ』を離れて売れっ子になってからも「永久担当」と呼ばれるほどの信頼を置かれていた[17]。
元青林堂社長の山中潤とも長年わだかまりがあったが、2014年に京都で20年ぶりに顔を合わせて和解した[18]。
エロ劇画評論家の劇画狼が編集者としての弟子にあたり、2012年より劇画狼の「おおかみ書房」レーベルに協力する形で、三条友美や中川ホメオパシーといった作家のマニアックな作品を世に送り出していた[19][20]。
2016年12月刊行の『キッチュ』(ワイズ出版)創刊号に掲載されたインタビュー「“ガロ”のまんが道/元副編集長・白取千夏雄編」が生前最期の仕事となった。また白取の没後刊行された同誌2号(2019年2月刊行)には「“ガロ”のまんが道・後編/手塚能理子編」が掲載されており、過去実現しなかった両者のインタビューを同じ誌面に載せるという貴重な試みとなっている。
著書
『全身編集者』(おおかみ書房/2019年5月20日発売)
元『ガロ』副編集長から見た非メジャー漫画史と自伝。カバーアートは白取が初代担当を務めた漫画家の古屋兎丸が手がけた。
前半は『ガロ』の創刊者で初代編集長の長井勝一との出会いと思い出、1980?90年代の『ガロ』編集者時代のエピソード、のちに妻となる漫画家・やまだ紫との出会い、そして1997年の青林堂編集部総辞職事件[21]による『ガロ』休刊騒動についてを回想する。