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やノートページでの議論にご協力ください。白倉 伸一郎(しらくら しんいちろう、1965年8月3日 - )は、日本のテレビドラマ・映画プロデューサー。東京都出身、血液型はAB型[1]、東京大学文学部第三類(フランス語フランス文学)卒業。東映株式会社上席執行役員テレビ営業部ヘッドプロデューサー兼テレビ営業部長兼キャラクター戦略部[2]。日本映画テレビプロデューサー協会正会員。 特撮ドラマの場合、従来の特撮ヒーローが持っていた善悪二元論、勧善懲悪的な論法に対し非常に懐疑的であり、プロデュース作品には「ヒーローであっても俗物である(『超光戦士シャンゼリオン』の主人公、涼村暁など)」あるいは「そこには正義も悪もない。人間が生きている、ただそれだけのこと」[14]、といった、ヒーロー的な「正義」の概念を否定する要素が含まれることが多い。なお、その理由の一つとして2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件が挙げられている[15]。 「設定を固めてこぢんまりと綺麗にまとめるよりも、リアルタイムのテレビ番組ならではのライブ感を重視したい」を持論としている[16]。 諸般の事情によりシリーズ中盤からの参加となった『仮面ライダー響鬼』では、白倉就任直後から作風に大きな変化が起きたとしてその是非を巡って議論が発生し、インターネットコミュニティなどで大きな物議を醸した(詳細は「仮面ライダー響鬼#作風と反響」の項を参照)。
経歴
1990年 - 東映入社。テレビ事業本部(現在の映像本部テレビプロデューサー集団)に配属[3]。
1991年 - 『鳥人戦隊ジェットマン』中途よりプロデューサー補として番組に参加[3]。
1992年 - 『真・仮面ライダー 序章』を担当し、初期のプロットを却下して現在のストーリーに変更させた[注釈 1]。同年『恐竜戦隊ジュウレンジャー』中途にてプロデューサーに昇格。
1993年 - 『五星戦隊ダイレンジャー』で年間通じて鈴木武幸とともに作品をプロデュース。
1996年 - 『超光戦士シャンゼリオン』でチーフプロデューサーに昇格[3]。
1997年 - 2月より2年間テレビ朝日に出向。
2000年 - 『仮面ライダークウガ』の途中より鈴木武幸の助言でプロデューサー補を担当[3]。
2001年 - 『仮面ライダーアギト』で久々にチーフプロデューサーを担当[3]。以後2003年の『仮面ライダー555』まで仮面ライダー作品のチーフプロデューサーを担当。
2005年 - 『仮面ライダー響鬼』で前プロデューサー寺成紀の降板を受け、途中からチーフプロデューサーを引き継ぐ。以後2007年の『仮面ライダー電王』までチーフプロデューサーを担当。
2008年 - 東映東京撮影所次長に就任。
2009年 - 『仮面ライダーディケイド』にて再びテレビの仮面ライダーシリーズのチーフプロデューサーを担当。雑誌のインタビューにて、テレビの仮面ライダーシリーズを手掛けるのは本作が最後であると宣言した。また、東映東京撮影所長代理を兼任しながら東映テレビ・プロダクション代表取締役社長にも就任。
2010年 - 2週間おきに新作が公開される形態の『仮面ライダー×仮面ライダー×仮面ライダー THE MOVIE 超・電王トリロジー』三部作をプロデュース。また、東映東京撮影所長代理から正式に所長に就任。6月29日付で執行役員に新任[5]。
2012年 - 東映テレビ・プロダクション社長として『仮面ライダー×スーパー戦隊 スーパーヒーロー大戦』のメインプロデュースに参加。また6月28日付で取締役に新任[6]。この年以降、特撮作品に加え、東映が制作する実写映画作品全般に企画や製作として携わっている。
2014年 - 取締役兼東映テレビ第一営業部長に就任。4月1日、東映社長が 岡田裕介から多田憲之への交代に合わせ、企画制作部長が須藤泰司に交代[7]。6月27日、人事異動により東映テレビ・プロダクション社長が日笠淳に交代。東映テレビ第二営業部長に就任[8][9]。
2018年 - 前言を撤回し『仮面ライダージオウ』にて再びチーフプロデューサーを務めている[3]。6月1日に新設したハイテク大使館の特命全権大使を兼務[10]。
2021年 - 『機界戦隊ゼンカイジャー』にて27年ぶりにスーパー戦隊シリーズ復帰かつ同シリーズのチーフプロデューサーを初担当。
2022年 - 監査等委員会設置会社への移行を始めとする組織改編に伴い、取締役を退任し上席執行役員に就任[11]。
2023年 - 新設されたキャラクター戦略部の部長に就任[12][13]。同年、部長を退任。キャラクター戦略部には留まる[2]。
作風