白井貴子_(歌手)
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出典検索?: "白井貴子" 歌手 ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2018年7月)

白井 貴子
生誕 (1959-01-19) 1959年1月19日(65歳)
出身地 日本神奈川県藤沢市
学歴フェリス女学院短期大学音楽科 卒
ジャンルロックニューミュージック
職業歌手シンガーソングライター
担当楽器ボーカル
活動期間1981年 -
レーベルCBS・ソニー
(1981年 - 1988年)
ポリスター
(1990年 - 1991年)
テイチク
(1993年 - 1995年)
ビクターエンタテインメント
(1997年 - 2001年)
RODインディペンデントレーベル
(1999年 - 2003年)
Antinos Records
(2001年)
Sony Music Direct
(2006年 - )
公式サイト ⇒TAKAKO SHIRAI THE PEACE ON EARTH

白井 貴子(しらい たかこ、1959年1月19日[1][2] - )は、日本の女性歌手シンガーソングライター神奈川県藤沢市出身[2]。2006年、デビュー25周年を期に、バンド活動を再始動。
来歴
デビュー前

生まれは神奈川県藤沢市だが、幼稚園に通う頃には、福岡県に住むことになる。小学生になる頃には名古屋にも住んでいた。中高校生の時は京都府で過ごし、中学は桂中学校、高校は京都女子高等学校に通っていた[3]。その後の音楽にも京都の学生時代の影響は大きい。

最終学歴はフェリス女学院短期大学音楽科[1]

全国を転々としたのは、父親の仕事の都合(いわゆる転勤族)。3歳当時は、自宅に先生を通わせてピアノも習っていたが、本人は練習が嫌で垣根を飛び越えて逃げ出すような女の子だった。

かつてレギュラー出演していた『サンデーモーニング』内ではバイオリンを習っていた時期もあったと発言している。これだけだと随分裕福な家庭のようだが、本人いわく「父は普通のサラリーマン」。

少女時代には、大のビートルズマニアである叔父が同居しており、3歳頃からビートルズの音楽を頻繁に聴いていた(白井本人は、覚えていないと語っている)。15歳の頃より不意にメロディーが浮かぶことがあったが、この頃はまだ楽譜の書き方も知らなかったため、作品にはなってはいない。初めてミュージシャンになることを考え始めたのは、自身が1990年にポリスターより発売したアルバム『BOB』に収録されている『ガラスの天井』にあるように17歳の時。
1980年代

1981年、CBS・ソニーの主催するオーディションに合格し女性歌手としてデビュー佐野元春のバックコーラス「プリティ・フラミンゴス」の一員としてライヴとレコーディングに参加。翌年、佐野の『SOMEDAY』をカバーしてシングルとしてリリースしたほか、佐野が沢田研二に提供した「Vanity Factory」をライヴで歌っていた。

初期はデビュー時のキャッチフレーズ「世界一キュートなシンガーソングライター」のイメージで売り出されたが、次第にロック色を強めてゆき、『白井貴子 & CRAZY BOYS』を結成。アーティスト表記もソロからグループ名にして、ロックを活動の中心に置いた。この時代、日本のメジャーな音楽業界は「女にロックは解らない」と冷淡な扱いだった。そんな周りの反応を吹き飛ばすかのように、ライブが始まると同時に観客が総立ちになり、「総立ちの貴子」あるいは学園祭クイーンとよばれた。この当時の衣装はミニスカートばかりだった。当初はジーンズ姿で歌っていたが関係者から「もっとファンのものにならないと売れないよ」と諭されたのがきっかけ。但し、「ライブ中は見られてもいいように下着の上に水着をはいてる」と発言したことがある。ロックンロールエンジェルの名の下に、日本武道館西武球場など、大規模なコンサートを次々と成功させていった。

しかし、そうした活動とは裏腹に、売上トップ10に入るのはアルバムだけで肝心のシングルは1984年に出した『CHANCE!』(シチズンリビエールCMソング)が最高位12位で終わっている。

1986年頃から、ビジネスライクな音楽業界と自身との軋轢が限界にきており、ミュージシャンとしての自分を見つめなおすために1年かけて仕事を減らし、1988年春には、事務所レコード会社も辞め、バックバンド『CRAZY BOYS』のリードギター本田清巳と共に渡英した。

1990年、再活動。それまでのロックミュージシャンとしての活動とは違い、ポップス色を強めた楽曲が増える。
1990年代

1993年、本田清巳と結婚。「私たち2人は結婚という形式に縛られるつもりは無かったけれど親を安心させたくて(笑)」と本人がテレビで語った。1995年頃からは、ポップス色の強いものからアコースティックへと変わっていく。ミニライブなどでは、本田のアコースティック・ギター1本で歌うことが増えた。『ROD』(River Of Dreams)というバンドを従えてのライブも行うが、エレクトリック・ギターが使われることは稀だった。こうした活動は、2006年に『CRAZY BOYS』が復活するまで10年あまり続くことになる。

NHK総合テレビジョンひるどき日本列島』でゲストレポーターとして出演した時に番組史上最高の視聴率を記録したことから翌年から3年間レギュラーを務めることになる。初のNHKのレギュラーに、父親は「どこへ行ってもお前の事を聞かれる」と喜んだ。番組内での自己紹介は「青空の好きなロックシンガー」。ロックミュージシャンとしてのプライドのため「おじいさんなんかと楽しく話せるようになるまで時間がかかった」。番組テーマ曲「元気になーれ」も手がけ、シングルで発売した。出せば売れることが判っていながら「商売にしたくない。みんなと楽しく歌えるものにしたい」とファンクラブのみの通信販売。公共放送のため入手方法の宣伝はせず、番組で知った視聴者は一般販売では手に入れられなかった。

1999年には白井個人のレーベル「ROD」からのアルバム『LIVING』を発売。同じ頃、個人事務所も設立。事務所社長は夫の本田清巳。それ以後は紀行番組のレポーターとしても多数出演。地球環境にも造詣を深め、各地で講演・啓発活動などに出演した。ミュージシャンがエコロジーという言葉を使い始める以前からリサイクルできるCDジャケットやパッケージなどを提案していたが、当時はコストがかかりすぎるという理由で実現困難だった。


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