白井晟一
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白井晟一
自ら設計した松井田町役場(当時)とともに
芸術新潮』1960年
生誕1905年明治38年)2月5日
京都府京都市(現在の中京区
死没 (1983-11-22) 1983年11月22日(78歳没)
京都府京都市東山区
国籍 日本
出身校京都高等工芸学校
職業建築家
受賞日本建築学会賞作品賞(1969年)
毎日芸術賞(1970年)
日本芸術院賞(1980年)
高村光太郎賞(1961年)

建築物原爆堂計画
善照寺本堂
ノアビル
親和銀行懐霄館
渋谷区立松濤美術館
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この項目には、JIS X 0213:2004 で規定されている文字(芹沢_介の3文字目、白井c磨の3文字目)が含まれています(詳細)。試作小住宅(現・顧空庵)
1953年。東京都世田谷区から秋田県湯沢市に移築湯沢酒造会館(秋田県湯沢市)雄勝町役場(秋田県湯沢市・現存せず)

白井 晟一(しらい せいいち[1]1905年明治38年)2月5日[2] - 1983年昭和58年)11月22日[3])は、日本建築家村野藤吾吉田五十八堀口捨巳谷口吉郎らと並んで、昭和期の住宅において和風を手がけた代表的な建築家として知られる[4]。他に役場や静岡市立芹沢_介美術館といった公共施設、銀行の建物も手掛けた[1]

一方で、その独特な作風や言説から「哲学の建築家[1]」「哲人建築家」「異端の作家」などと称されることもある[4]。1950年代の「伝統論争」の論者としても知られる[4]
生涯
生い立ち

1905年2月5日に京都市の三条大宮で、白井七蔵・えんの長男として生まれる[2][5]。本名は白井成一[2]。兄弟には、7歳上の姉清子と、弟の隆吉がいる[2]。白井家は、を代々扱っていた豪商であり[2]、父・七蔵は下京区の銅延業者で第1・2回内国勧業博覧会に出品した当時の代表的な銅板職人であったが[要出典]、明治後期には工場主名簿から姿を消しており、近代伸銅工場の台頭により廃業したと見られ[要出典]、当時は油屋を営んでいたと言われる[2]

1917年、12歳で父と死別[2]。画家近藤浩一路に16歳で嫁いで、東京府本郷区湯島同朋町に住んでいた姉・清子のもとに身を寄せた[2]1918年4月、青山学院中等部に入学[2]。1922年に第一高等学校を受験するが失敗し、東京物理学校(現在の東京理科大学)に入学する[2]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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