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やノートページでの議論にご協力ください。発車メロディ(はっしゃメロディ)は、主に鉄道駅において列車が発車することを知らせる音楽またはそのシステム。金属製の電鈴や電子音のベルを使用したチャイムやブザーは「発車ベル」と呼ばれ、旋律を付けた発車メロディとは区別される[1]。また本項では、鉄道駅において列車の接近・通過を知らせる接近メロディ(せっきんメロディ)についても記述する。発車メロディと接近メロディ、ホームドアチャイムなどをまとめて「駅メロ」と略称される事がある。
鉄道車両によっては、車外に案内用スピーカーを搭載して乗務員の押しボタン操作により、駅自動放送ではなく車両から発車メロディや放送を鳴らすことができるものもある。線区によっては、駅の装置から流れるメロディを完全に廃止し、乗車促進音による案内に統一された事例もみられる。これについては乗車促進音の記事を参照。
貨物駅でも入換・発車時に注意喚起の目的で同様のシステムが採用されることがある。またバス停留所や遊園地のアトラクション等でも同様の目的・機能を果たすものが存在する。本項では鉄道駅において旅客向けに放送されるものについて記述。 電子音が普及する前は国鉄をはじめとして、目覚まし時計のようにジリジリと音が鳴る電鈴を使っていた時期が長かった[2]。 発車メロディの発祥については諸説ある。1951年(昭和26年)には旧国鉄の豊肥本線豊後竹田駅でレコードを使用し、列車の発車時に「荒城の月」を流していたという記録が残っており、これは発車メロディの嚆矢と言える[1]。なお「荒城の月」を作曲した瀧廉太郎は大分県竹田市出身であり、今日でいう「ご当地発車メロディ」のはしりでもある[1]。 1970年代にはすでに一部の大手私鉄で発車メロディが使用されており、京阪電気鉄道では1971年8月より使用開始している。このメロディは、当時の村岡四郎社長の発案で導入されたもので、曲を制作したのは発車ベルの設備担当だった木村陸朗。木村によると、海軍兵学校で体験した起床ラッパで起きてから整列するまでの記憶から「テンポよく音階が上がる」メロディーが生まれた[3]。このメロディは2007年6月まで使用。同社では1960年代頃より発車メロディ導入までは、00分発の京阪特急は始発駅でNHKの時報を流して発車させていた。 東日本旅客鉄道(JR東日本)では、国鉄分割民営化後の1980年代後半から一部の駅で発車メロディを導入し[1]、1990年代以降は首都圏の駅を中心に普及[1]。 音楽学研究家で東京大学教授(当時)の渡辺裕は、文献中で発車メロディの導入経緯について論述[2]。渡辺によれば、国鉄・JRでは長い間、発車ベルとして金属製ベルや電子音のベルが使われていたが、急き立てるようなけたたましいベルの音は旅客には不評であった[2]。国鉄分割民営化が行われた1987年には、本多勝一が11月13日付の朝日新聞にコラム「騒音に鈍感すぎないか」を掲載し「日本の駅のアナウンスはうるさい」と批判した[2]。このコラムは大きな反響を呼び、朝日新聞ではこれを受けて「何とかならない?拡声機公害」と題した特集を組んだ[2]。 翌1988年8月にはJR千葉駅で発車ベルが廃止され、1989年(平成元年)3月には、ヤマハで新しく開発された発車メロディが当時1日の乗客数150万人を超えるJR新宿駅・渋谷駅で使用開始された[2]。これにより、東京を中心とした日本中に「発車メロディ」の存在が知れ渡ることになった[4]。騒音源として不評を呼んだ発車ベルに代わり、発車メロディは「環境にやさしい」という触れ込みで導入され[2]、読売新聞はこの際の発車メロディ導入について「駅メロ、心に安らぎ」と報じている[4]。発車メロディの導入はこのように、当初は騒音対策と旅客サービス向上の一環として行われたという経緯があった[2][4]。 渡辺によれば、導入初期の発車メロディはあくまでも「通知音」として、音楽としての「作品性」を排して制作されたものが多かったが[2]、2000年代頃からはご当地ソングを使用した「ご当地発車メロディ」を採用したり、さらには作曲家の存在(すなわち芸術性)を積極的にアピールしたりする事例が増えている[2]。渡辺はその例として、前者は自身もよく利用するJR八王子駅の発車メロディ『夕やけ小やけ』[2]、後者は向谷実がトータルプロデュースして作曲した京阪電気鉄道の発車メロディを挙げている[2]。さらには発車メロディを集めたCDまでが発売されるに至った[2]。
概要