この項目では、三島由紀夫の戯曲について説明しています。作品名の由来となった遺跡については「ライ王のテラス」をご覧ください。
癩王のテラス
訳題The Terrace of The Leper King
作者三島由紀夫
国 日本
言語日本語
ジャンル戯曲
幕数3幕
初出情報
初出『海』1969年7月・創刊号
刊本情報
出版元中央公論社
出版年月日1969年6月28日
装幀司修
総ページ数159
初演情報
公演名劇団浪曼劇場+劇団雲+東宝提携帝国劇場公演
場所帝国劇場
初演公開日1969年7月4日
演出松浦竹夫
『癩王のテラス』(らいおうのテラス)は、三島由紀夫の最後の戯曲。全3幕から成る。三島文学の主題が色濃い最後の演目として重要な作品である[1]。病魔に冒されたカンボジアの王・ジャヤーヴァルマン7世が、アンコール・トムを造営しバイヨン寺院を建設してゆく愛と夢の雄大なロマンを、月の王朝の衰亡を背景に描いた物語。王の肉体が崩れ去っていくにしたがって、威容な観世音菩薩が完成していく様を、王の精神と肉体との対比で壮大華麗に表現している[2]。舞台初演は同1969年7月4日に北大路欣也主演により帝国劇場で上演された[3]。 1969年(昭和44年)、雑誌『海』7月創刊号に掲載され、雑誌発売直後の同年6月28日に中央公論社より単行本刊行された[4][5]。文庫版は1975年(昭和50年)8月10日に中公文庫より刊行されたが出版禁止で絶版となり、現行では2002年(平成14年)12月刊行の『決定版 三島由紀夫全集第25巻・戯曲5』でしか読めない[注釈 1]。翻訳版は佐藤紘彰訳(英題:“The Terrace of The Leper King”)で行われている。 第1幕 - 西暦紀元12世紀末のカンボジア(作品では「カンボジヤ」)のアンコール王宮カンボジアの若き王・ジャヤーヴァルマン7世(作品では「ジャヤ・ヴァルマン七世」)は、敬虔な仏教徒で、勇猛な美貌の戦士であった。宿敵チャンパを破り、チャム戦の大勝利の凱旋の喜びのうちに、王は荒廃した王都の再建をめざす。人民は歓呼をもって王を支持した。王は人民に何トンもの施米や黄金を撒き、建築設計のための石工や彫刻家が王宮に呼ばれる。しかし、王のそんな大盤振る舞いの大計画に、不安を抱く者がいた。占星術師クララーパンジは方角が凶だと進言する。すでに王の上腕に小さな紅い斑紋が出ていた。宰相スールヤバッタと王太后(母妃)チューダーマニも不安を抱いていた。 第2幕 - 1年後建設中の寺院の名は、王様と共に戦って死んだ英霊たちの御魂を迎えるバイヨンと名づけられた。若い石工ケオ・ファは、私腹を肥やし怠けている老棟梁カンサに代わって観音像の工事に励んでいた。民の一部に癩が蔓延しはじめ、星の凶兆を知った宰相スールヤバッタは、これを機に癩病の王を暗殺して自分が王太后と結び権力の座に就こうとしていた。宰相は老棟梁を買収して石工たちの建築を怠けさせようとしていたのだった。第1王妃(夫人)インドラデーヴィも王の病気におびえ、王と会わなくなる。第2王妃(夫人)ラージェンドラデーヴィだけは変わらずに王を見守っていた。宰相はそんな第2夫人に惚れていた。そして無理やり第2夫人を強姦しようとしたときに王太后が現われ、彼は鞭打たれる。しかしそんな王太后と宰相は、裏では仲が良かった。王太后は第2夫人に、王を10日以内に毒薬で殺すように命じ、従わないならおまえを殺すと脅した。王太后は息子の病が不治ならば、彼を殺して再び自分が王を出産し直すと言った。建築は次々と完成していった。しかし建築が進行し、伽藍が出来上がるにつれて、王の肉体は少しずつ癩に蝕まれていく。王はきらびやかな衣裳で肉体の崩壊を隠していた。そして国の財政も次第に傾きはじめ、造営資金も窮していた。そんな時、支那(南宋)大官の劉万福が、支那の貴婦人に珍重されているカンボジアの美しい魚狗(カワセミ)の羽根を大量に買いたいとやって来た。この土地を守護する翡翠の鳥の羽毛を売ってまでバイヨンの建築費用に充てなければならなかった。第2夫人は王暗殺計画に従わなかった。王太后の報復をおそれ、彼女は第1夫人の部屋へ匿ってもらい、国外へ逃亡しようとするが、王太后に見つかってしまう。そこへ王が現われ、「なぜ皆、私を避けるのだ」と女たちに詰め寄る。そのとき、第1夫人にも癩の兆候が出ていたのがわかった。第1夫人は、王が執着している神殿に祀られている不老不死の蛇神の娘・ナーガに嫉妬をしていた。王は、「ナーガは私が癩者になろうと、決して避けないただ1人の女だ」と言って、蛇神の塔に消えて行く。第1夫人は王を追いかけて、女が入ってはならない神殿に入り、「今夜からはあなたを離さない、いつまでも若い蛇神の娘になって、あなたを」と言い、「私がナーガです、私がナーガになります」と神殿の焔の中へ投身してしまった。王は愕然として気を失った。そこへ宰相と王太后がやって来る。宰相は今がチャンスと王を殺そうとするが、後ろから王太后に刺され、死際に「第2夫人は私に操を売ったのです。私が犯したのです」と王に嘘を言いながら死んでいった。 第3幕 - さらに1年後宰相の死で、叛乱の兆は消え、癩を恐れた村人も次々と出て行ったが、王を尊敬する若棟梁ケオ・ファが献身的に建築を進め、王の念願であったバイヨン寺院の建築を着々と進めていた。しかし、美しかった王の顔は、もはや人前にさらせないほど癩に冒され、目だけをあらわし、金色の輿に乗っていた。王は視力も衰えはじめていた。母・王太后は支那大官夫妻と一緒に支那へ発ち、そこへ移住することとなった。別れの時、王太后は自分も王の暗殺計画にいたことや、第2夫人の貞節の潔白を話す。王は、疑いが晴れた第2夫人と一緒に、ケオ・ファとその恋人の結婚式を宮殿で盛大に開き、若い2人の喜びを祝った。また1年が経ち、バイヨン寺院が完成した。ケオ・ファ夫婦も充ち足りて旅立つ。しかし宮廷には第2夫人しかいなくなり、王都の民の賑わいはなかった。王は輿をバイヨン寺院が一望できるテラスに据えさせるが、すでに失明して死が迫っていた。第2夫人がバイヨンの威容を美しく説明するのを聞きながら、王は幻を思い描くしかなかった。それは美しい人頭像を林立させて、浄土の森の中に屹立する、世界で最も燦然とかがやく壮大な寺院となった。王は臨終の自分を独りにしてもらい、バイヨン寺院に向かって、静寂の新王都の只中で輿の中で死んでゆこうとする。そのとき、バイヨン寺院のかがやく青空に接した頂きから、自分を呼ぶ若々しい声を耳にした。それは、かつての健康な自分の朗々とした声であった。寺院の頂きに、燦然とかがやく裸の美しい若い王の肉体が出現した。そして、地上の輿の中で死にかけている王自身の精神に語りかけ、王の精神と肉体の対話がはじまる。肉体は肉体の不死の勝利を主張し、精神は精神の永遠の勝利を主張する。しかしついに、輿の中の声は絶え、王は死ぬ。塔上の若く美しい肉体は自らの勝利を讃え、「青春こそ不滅、肉体こそ不死なのだ」と言った。 ライフワーク『豊饒の海』の第3巻『暁の寺』の執筆取材のために1965年(昭和40年)10月12日にタイのバンコクを訪れた三島は、同月25日からカンボジアへ旅行し、アンコール・ワット、アンコール・トムを見学した[6]。 三島はそのアンコール・トムを見た際に『癩王のテラス』の着想を得て、〈熱帯の日の下に黙然と坐してゐる若き癩王の美しい彫像を見たときから、私の心の中で、この戯曲の構想はたちまち成つた〉とし[7]、バイヨン寺院を建てた王が〈癩にかかつてゐたといふ伝説が、私の心に触れた〉と語っている[8]。肉体の崩壊と共に、大伽藍が完成してゆくといふ、そのおそろしい対照が、あたかも自分の全存在を芸術作品に移譲して滅びてゆく芸術家の人生の比喩のやうに思はれたのである。生がすべて滅び、バイヨンのやうな無上の奇怪な芸術作品が、圧倒的な太陽の下に、静寂をきはめて存続してゐるアンコール・トムを訪れたとき、人は芸術作品といふものの、或る超人的な永生のいやらしさを思はずにはゐられない。壮麗であり又不気味であり、きはめて崇高であるが、同時に、嘔吐を催されるやうなものがそこにあつた。 ? 三島由紀夫「『癩王のテラス』について」[8] そして三島は、〈もつとも忌はしいものは時として神聖さに結びつき、もつとも悲惨なものは時として高貴と豪奢に結びつく〉という〈後期浪漫派〉の作風を想起し、作品の骨子がその晩のうちに出来たが、巨大な舞台装置の条件(大劇場で「視覚的聴覚的効果」を取り入れる)の諸事情から上演の機会が得られずに4年後に執筆となったと述べて[8][7]、〈ミクロコスモスの全体性の実験〉は『サド侯爵夫人』や『わが友ヒットラー』で試みたので、『癩王のテラス』では〈マクロコスモスの全体性〉を実験したとしている[8]。
発表経過
あらすじ
作品背景
着想
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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