疎開
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疎開(そかい)は、

(軍事作戦用語、原義)前進中の軍隊の
距離・間隔をひらくこと[1]。集団行動している兵を散らし、攻撃目標となり難い状況を作りながら作戦行動を行うこと。

空襲や火災などによる損害を少なくするため、都市部の住民や官庁、軍需工場、民間企業などの産業を田舎へと避難(移動)させること[1]

なお、以上の戦時疎開以外に自然災害発生時の集団避難の概念として「疎開」が用いられる例がある(防災白書の「震災疎開」など)[2]
概要戦時中の東京都のポスター(1944年)

かつては軍事用語であったが、日本においては第二次世界大戦末期に、攻撃目標となりやすい都市に住む学童老人女性、又は直接攻撃目標となるような産業などを分散させ、田舎避難させるという政策を指す言葉として一般化した。都市計画学者の越澤明は、この言葉は元来防空都市計画用語で、当時の内務省の技師北村徳太郎ドイツ語「Auflockerung」を訳したものとしている[3]

当時の政権が「避難」や「退避」という言葉を正直に使用しなかった理由は、当時の軍部が撤退・退却を誤魔化して「転進」と表現したのと同様、「軍事作戦の1つであり、決して逃げるのではない」と糊塗する(ごまかす、取り繕う)意図があったとされ、それゆえ当時の新聞紙上等においては外国で行われた(外国政府による、外国人の)疎開について、「避難」「撤去」「疎散」などと表現している。

日本以外では第二次世界大戦中において本土が大きな被害を受けたドイツイギリスソビエト連邦など多くの国でも、政府の主導による疎開が行われたほか、本土が戦場より遠く、日本軍によるアメリカ本土空襲アメリカ本土砲撃が行われたものの、結果的に民間人に多くの被害を出すことが無かったアメリカにおいても、日本軍による大規模な空襲や上陸を恐れて、日米開戦後の1941年から1942年にかけて疎開が政府により本格的に計画された。

なお、以上は戦時疎開であるが自然災害発生時の集団避難の概念として「疎開」が用いられる例がある(防災白書の「震災疎開」など)[2]
疎開の種類
学童疎開
日本における学童疎開学童疎開

日本において第二次世界大戦末期の「学童」とは、国民学校初等科に通っていた児童を意味する。大日本帝国政府は「縁故者への疎開」を奨励したが、学校毎の集団疎開(学校疎開)も多く行われた。

日本の都市部では自営業者の世帯を中心に労働力の中心となるべき成人男性が戦地に赴いている間、子供は重要な労働力として家計の助けとなっている世帯も多く、疎開させたくても出来ない家庭があった。集団疎開に際しては保護者から疎開免除の嘆願書が提出された例も存在している。

1944年連合国軍による本土空襲が始まった(北九州の八幡空襲)直後、1944年8月4日東京都から学童疎開第一陣が出発し、7月の緊急閣議で急遽疎開決定した沖縄県の学童は8月中旬、大阪市からは8月末に移動を始めた。以上の地域以外にも、横浜市、川崎市、名古屋市、尼崎市、神戸市と今の北九州市(当時は門司、小倉、戸畑、若松、八幡の各市)から周辺県への疎開が9月末までに集中的に行われた。疎開児童総数は40万人以上だった。

写真集や[4][5][6]、その他報告は数多い[7]。沖縄の学童疎開では、対馬丸事件で犠牲者がでたが、与那原国民学校の学童と引率者は1944年8月15日学校を出発、長崎港に到着し、熊本県日奈久町の温泉旅館に移動した。日奈久国民学校で授業を受けたが、1945年6月再疎開となり、1946年10月に帰宅した。第2班は、室戸丸で鹿児島港を経て、熊本県湯浦町に到着した[8]。東京都長官大達茂雄は「帝都の学童疎開は将来の国防力の培養でありまして学童の戦闘配置を示すものであります。」と都の国民学校校長会議で1944年発表。「学童疎開衛生注意事項に関する件」で肢体不自由児や、伝染疾患(結核、重症トラホーム)、喘息てんかん、ひんぱんな夜尿症性格異常、その他集団生活に適さない者とされた児童は学童疎開から除かれた。国家総動員法盲学校生徒は兵隊のマッサージ聾学校生徒は騒音の工場勤務が出来たが、肢体不自由児は兵隊にも銃後にも不要とされた[9]
日本の学童疎開の歴史[10]

1941年11月20日 芦田均議員が空襲の危険がある東京・大阪で子供を事前に避難させることを推奨した。

1941年12月16日 勅令防空法施行令にて国民学校初等科児童は、病人、妊婦、老人などと共に事前避難の対象とされた。

1943年10月25日 次官会議決定で、重要都市人口疎開に対する当面の啓発宣伝方針で、「任意の人口疎開」をうたったが、疎開先は自分で探せという意味である。

1943年12月10日、文部省は、学童の縁故疎開促進を発表[11]

1943年12月21日の閣議で「都市疎開実施要項」を定め、東京都区部、横浜、川崎、名古屋、大阪、神戸などを疎開地区とした。疎開希望者は12%であった。

1944年4月1日現在、国民学校初等科学童の9.3%が縁故疎開をしていた。

1944年4月2日に内務省案が示された。これによれば、東京都国民学校3-6年生のうち20万人を近隣の県に疎開させ、生活費は1か月20円とし、半額を国庫負担とする。実施期間を1年とする。

1944年6月30日の閣議で「学童疎開促進要項」を発表した。

1944年7月5日、防空総本部は「帝都学童疎開実施細目」を定め、実施を勧奨した。実施する政府の方針は1944年7月18日か19日に伝えられた。

1944年7月7日、緊急閣議で沖縄の疎開が決定。

1944年8月4日、20万人規模の疎開の第1陣の児童が東京を発ち、東京都板橋区上板橋第三国民学校の児童が群馬県へ疎開するなどした。

1944年8月16日から沖縄県の九州などへの疎開が始まった。(1944年8月22日、対馬丸、魚雷攻撃をうけ悪石島付近で沈没)

8月22日、沖縄の学童など800名を乗せた対馬丸が米潜水艦に攻撃され鹿児島悪石島近海で沈没[12]

9月25日には全国で41万6946人の子供が集団疎開していた。

杉山尚医師は宮城県玉造郡鳴子町へ疎開した3795人の健康状態を調査した。時期は6か月後である。1人が亡くなり、のべ695人は結核性疾患、呼吸器性疾患、発熱、頭痛、胃腸疾患、黄疸、ジフテリアに罹患し、158名は病気を理由に集団疎開を取りやめた。食糧の量的質的不足が原因という。

1945年3月9日の閣議で、集団疎開を1年以上継続することを決めた。8月16日に東京都は疎開先の教育を継続すると表明した。

集団疎開児の大部分は1945年11月中に疎開先より引き揚げた。沖縄県から九州に集団疎開した児童は1946年10月、光明国民学校(東京都立光明特別支援学校)が長野県から引き揚げたのは1949年5月28日であった。空襲で家族全部が死亡して戦災孤児となり、引き続き疎開先にとどまった子供もすくなくなかった。

疎開計画(1944年7月)[13]疎開都府県都市疎開児童数受け入れ予定県
東京都区部200,000宮城、山形、福島、茨城、栃木、群馬、埼玉、千葉、新潟、静岡、長野、山梨
神奈川県横浜市24,900静岡
神奈川県川崎市8,100静岡
神奈川県横須賀市7,000静岡
大阪府大阪市80,000滋賀、奈良、京都、和歌山、石川、福井、徳島、香川、愛媛
兵庫県神戸市23,700鳥取、島根、岡山
兵庫県尼崎市6,300神戸市の受け入れと同じ
愛知県名古屋市35,000岐阜、静岡、三重
福岡県門司市2,900福岡県からは山口、佐賀、熊本、大分
福岡県小倉市3,400福岡県からは同様
福岡県戸畑市1,700福岡県は同様
福岡県若松市1.700福岡県は同様
福岡県八幡市5,300福岡県は同様

沖縄県の疎開児童数(1944年9月現在)[14]疎開先県性別初等科
(1-6年計)高等科男女合計
宮崎男1,2073842,643
女776276
熊本男1,2573912,602
女610344
大分男11767341
女9958


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