畿内・近国の戦国時代(きない・きんごくのせんごくじだい)では、畿内とその近国、おおよそ現在の近畿地方の室町時代後期、戦国時代について記す。
戦国時代の区分については諸説あるが、この項では狭義の戦国時代の始まりとされる明応の政変が起きた明応2年(1493年)から[1]、戦国時代の下限とされる天正元年(1573年)[2]までを戦国時代として扱う。 戦国期の畿内は天皇の許、足利将軍家が統治し管領の細川氏が将軍家を輔弼する首都・京都を擁する山城、守護不設置ながら興福寺が実質的に守護を担う大和、天文期に本願寺が大坂に本山を据えることになる摂津、国際貿易港・堺を要する和泉、三管領家の一つである畠山氏が守護を務める河内からなり、これらの5ヵ国は天下と総称されていた[3]。またその周辺の朝廷、公家の荘園が多く存在した丹波、六角氏が支配し足利将軍が戦乱を逃れて度々滞在することになる近江などの近国についてもここに記述する[注釈 1]。 戦国期の畿内・近国の政治情勢は、明応?永正期の足利義稙と足利義澄による二人の将軍の対立の地方への波及[5]、永禄年間の三好氏と将軍の争いが地方に新たな政治機軸を創出させる等[6]、畿内・近国のみならず日本列島各地の政治動向にも影響を与えた[7]。一方で地方の戦国大名達も上位権力の承認を受けずに自らの支配の正当性を確立することは困難であり、京都の朝廷や幕府との結びつきを必要としていた[8][9]。また楊弓会事件のように京都が地方の大名の政治抗争の場になるなど、畿内・近国の戦国時代は戦国期日本列島史において重要な位置を占めている。
概要
永禄年間の京都の様子。狩野永徳作、『上杉本洛中洛外図屏風』より。
研究史文亀元年(1501年)頃の丹後国・府中の光景。雪舟作、『天橋立図
戦後、戦国史の研究では地方の戦国大名研究が活発に行われる中、畿内戦国史の研究は低調な状況にあった[11]。だが1970?1980年代にかけての今谷明の研究を起点とし、今谷の研究を克服しながら畿内戦国史研究は進展していった。戦国史研究では、応仁・文明の乱によって室町幕府が崩壊したとする認識が戦後も大勢を占めていたが[12]、今谷の研究により幕府は乱後も畿内に一定の権力基盤を有するという見通しが示された[13]。その今谷も、明応の政変以降の幕府は細川京兆家の傀儡に過ぎないとしていたが、研究の進展とともに、明応の政変以降も幕府は一定の権力を有していたことが明らかにされていった[14]。また今谷の研究も含め、畿内戦国史に関する研究は、室町幕府よりも細川政権に論点の重心が置かれていると批判されていたが[15][16]、21世紀以降、畠山氏や六角氏などの大名等も含めた歴史像の構築が進められている[17]。
戦国期の天皇・朝廷についても幕府・将軍と同様に権威だけの存在とされ、天皇・朝廷の持つ権力に関する研究はあまり行われていなかった[18]。しかし、これについても1990年代以降、天皇を含め戦国期の朝廷・公家研究が活発になっている[19]。
また畿内・近国の戦国史研究は、首都・京都や寺内町などの都市や惣村などの村落史、民衆史の研究が進んでいるのも特徴である。これら畿内戦国史の研究を支え、推し進めているのが現代まで残された豊富な文書群である。
御所の女官たちが書き継いだ『御湯殿上日記』や[20]、京都の貴族たちが記した日記の他[注釈 2]、関白・九条政基による、4年に及ぶ和泉国日根野荘での荘園経営の備忘録『政基公旅引付』も貴重な資料である[22][23]。