異種格闘技戦
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異種格闘技戦(いしゅかくとうぎせん)は、広義では異なった格闘技の競技者同士が何らかのルールの下で対戦すること。

狭義では元プロレスラーであったアントニオ猪木が現役時代である1976年から断続的に行ったプロレス対他の格闘技の競技者と闘った異種試合の通称である。これらの正式な名称は「格闘技世界一決定戦」という。

それ以降は、最初に猪木らが中心となってプロデュースし、実現させた「異なった格闘技の格闘家や武道家同士が、双方取り決めたルールの下で闘う」競技。

一般には、ボクサー等は拳に着用する各種グローブを着用し、パンチの使用が許されることになる。こうしたグローブや専門シューズの着用までは許されるが、剣道フェンシングなどのような器具や武器を用いる格闘技は含まれない。
歴史「総合格闘技#歴史」も参照

日本の記録では<スポーツ探偵>ボクシング 黒船と一緒にやって来た?や日本のボクシングの歴史[1]、[1]、『日本プロレス全史』(ベースボールマガジン社)、小島(1983)によると(小島貞二(1983)『力道山以前の力道山たち―日本プロレス秘話 』: 三一書房)、ペリー提督が二度目に来航して日米和親条約を結んだ1854年(嘉永七年)に、レスリング・ボクシング選手でもあった米兵が力士に挑戦した相撲vsレスリング・ボクシングの他流試合の記録が知られる(1854年2月26日)。

このときペリー一行との接見式に三十人の力士団が動員され、彼らは幕府がペリーに贈った白米200俵を浜辺から船に積み込む役割を担うが、米俵運びに続いて稽古相撲も見せており、血気盛んな水兵たちとりわけボクシングやレスリング選手でもある者がチャンピオンに挑戦したいと、当時の大関小柳常吉に伝えられる。そして奉行の耳にも入る。奉行は双方に怪我のないような対戦なら構わないではないかということになった。こうして小柳と、俵を八俵運んだ白真弓が受けて立つことになる。試合は15?6人が二人にぶつかっていくが、土俵の中の相撲でやったのだから叶わなかったという。ただし、白真弓はパンチを受けて鼻血を出し、呼吸がかなり苦しかったとされる。

ひとまわり終わったところで、とくに腕に覚えのある三人の水兵が挑むことになった。水系の中の BIG 3としてレスリング選手でウィリアムとブライアン、ボクシングの選手でキャノンという3人特にキヤノンは双腕の刺青がすごく一際逞しい男であったという。一方小柳は170センチ体重155kgのかた太りで腕力も強かったという。

まずはキヤノンがいきなり右からスイングを振ってきたが、小柳は仰け反ってその右を払うと思いっきり小手に振り、間髪を入れずに左右からウィリアムとブライアンが腰めがけて組み付いてきたというが、右からくるブライアンをたぐり寄せ、首を巻き込む要領で抱え左から来るウィリアムは付きでよろめかしバンドを掴んで足を払われたという。相手の倒れた体制から小柳は右足でキャノンの腰のあたりを踏み右手でブライアンの首を巻き左手でウィリアムをバンドで吊るし上げた格好となった姿を見ていた水兵たちは両手を広げたオーバーなジェスチャーでワンダフルと叫んだという。結果米軍の完敗。

その後1861年(文久元年)2月、相撲の横浜巡業に現れたラウダというイギリス人のその挑発的な言動に切れ、三段目時津風宗吉が対戦。軍配が返ると同時に時津風は自慢の石頭から突っ込み、右ストレート送り出すラウダを押し上げる。体勢を崩しつつも股間を蹴ろうとするラウダに突き一髪を見舞うと土俵下に吹き飛ばした。横浜居留地内はラウダが投げ殺されたらしいという噂で持ちきりになったという。

同年には身の丈八尺で各国を武者修行して歩く猛者との触れ込みのフランス人ヘルシャナという人物が、横浜の力士に投げ飛ばされている錦絵が残っている。「横浜力士の誉れ」のタイトルで描かれ、 大評判となったという。ヘルシャナは力士に勝負を挑んだもしくは力士達をからかったなど諸説あるが、結果挑戦に応じた一人の力士に電光石火で投げ飛ばされたという。絵の解説で相手は幕内力士の明石潟浪五郎と推測しているが、事件の実相は不詳としている。

同時期身長160 cm のチビッコ力士として幕末に活躍し、小さいだけの理由でなかなか入幕を許されなかった両国梶之助も身長2メートルを超すインド人と非公式に対戦しているという。このインド人は日本の力士たちを手玉に取っていた、と言う話があった猛者だったらしい。

試合前、あまりの小ささに目を丸くしたインド人であるが、対戦では両国のいきなりの頭づきに怒り心頭し、髷を掴みヘッドロックとパンチの雨をみまい、両国を顔面血だらけにしたが、両国は相手の急所を握りしめ、裏投げを決めたと言う。

1879年(明治12年)の鞆ノ平武右衛門の異種格闘技戦は、アメリカ合衆国前大統領ユリシーズ・グラントの来日にボディーガードとして同行したボクサーが、同年6月の天覧相撲という公式の場で「チャンピオンにチャレンジしたい」と試合を申し込んだもの。頭から突っ込む鞆ノ平に素手でアッパーカットにフックを見舞うボクサーという壮絶な死闘が続いた後、鞆ノ平はついに自身18番の殺人技である鷹無双で相手を投げつけた。以降角界でメリケンと言えば打撲傷を指す隠語になったという。

大阪相撲で三段目まで登った大錦太郎市はハワイ巡業の後にアメリカ本土にわたって異種格闘技戦を繰り広げている。1898年(明治31年)場所はフィラデルフィアの野球場で、首締めで攻めまくる大錦にレフェリーがチョークと注意するも英語がわからずそのまま喉輪責め、相手は大錦の背中を叩きギブアップを求めるが、大錦はそんな合図があることを知らないので、一気に締め落としている。

また1914年(大正3年)春に当時の横綱太刀山峯右エ門のもとにパリで秋に行われる各国のトップレスラーによる国際試合に出場し、欧州最強であるジョージ・ハッケンシュミットと戦ってほしいという話が舞い込んでいる。この大会に太刀山も出る気満々だったというが、第1次世界大戦が勃発し大会自体が中止で幻に終わった。

明治期以降は柔道家も多くの他流試合・異種格闘技戦を行っていることが知られる。そもそも講道館自体が講道館柔道対古流柔術で名を馳せた存在であるし、嘉納治五郎の甥の嘉納健治は日本のボクシング界を発展させるために柔道対ボクシングの異種格闘技試合である柔拳試合も開催していた。この「柔拳」は明治中期から興行として行われていた。また第二次世界大戦をへて戦後の一時期にも行われている[2][3]

このほか、例えば柔道二段でもあった内田良平は講道館で旧知の間柄であったロシア駐在武官広瀬武夫大尉にある試合を依頼されている。広瀬はロシア滞在時柔道の武勇伝を重ねていて、それが皇帝ニコライ2世の耳に入り是非柔道を見たい、とついては皇帝お抱えのレスラーと試合をしてほしいという要請があったが、広瀬大尉は急用で出張することになり試合に出られなくなってしまったため、代理で出場してくれないかとの頼みで、内田は快くこれを引き受けたという。

こうして1898年(明治31年)2月に異種格闘技戦が催される。内田の相手は皇帝自慢のレスラーの触れ込みであるジャハーリンという人物。当時のロシアの最強レスラーで、クラチスキー・スタイルという流派を得意とする重量級の選手で、ニコライ2世をはじめ皇后アレクサンドラや閣僚など、軍幹部や各国公使等も参列しての試合であり、ルールはクラチスキー・スタイルと柔道をミックスしたルールで実施することになったとしている。審判は王室体育局の人物があたった。試合が始められるとジャハーリンは腰を低くした構えで内田に迫ったというが、機を見て内田はジャハーリンの懐に飛び込み、小内刈りで相手の態勢を崩して投げからの十字固めで相手の腕を決めて勝負を決したとされる。その後内田は同国陸軍予備学校で柔道を教えることになったという。

1909年(明治42年)には英国海軍が横浜に寄港した際に講道館に申し込んだことで実現した柔道家の昆野睦武と、スミスという英国人のボクシングチャンピオンの柔道対ボクシングの国際試合が羽衣座で行われ、試合は激しい戦いの応酬の末に昆野は肋骨を2本折られながらもスミスを破ったという記録が残っている[4]

1921年にはアメリカのプロレスラー、アド・サンテルが弟子のヘンリー・ウェーバーを連れて来日し、講道館柔道に対戦を要求するが、講道館は対戦を拒否し、系列の弘誠館が受けてたち、4名の柔道家が対戦し、プロレス対柔道の異種格闘技戦が行われている。

その他、前田光世がアメリカ、メキシコヨーロッパなど世界各地で異種格闘技戦を行った。この間柔道衣着用の試合では1000勝以上し、終に無敗であった。

1967年、ソ連の柔道にサンボの選手と日本の柔道家との親善試合が東京、大阪、福岡で行われた。両国のスポーツ代表団が親善試合を行ったのはこれが初めてであったが、柔道マッチで行われた両国9人ずつの対戦は、スコアでは日本が最終試合を待たずに6勝を上げる。最後の試合にのぞんだのは日本が無差別級の柔道全日本チャンピオンかつ五輪優勝者並びに世界大会で二度の優勝経験を持つ岡野功、ソ連側はサンボ選手のボリス・ミシェンコであったが、日本陣営は岡野の勝利と見ていた。ところが岡野はサンボ技である寝技にひきこまれての回転腕十字を仕掛けられて破れている。試合後、代表団の総合勝利よりも日本最強の柔道家とされる岡野が敗れたことに、代表団が負けて岡野が勝ったほうがよかったと日本陣営は悔しがったという。

山下泰裕も1976年9月、母校東海大学で親善試合として1試合目をサンボルール、2試合目を柔道ルールで闘っている。相手は柔道家としても五輪銀メダルや世界選手権準優勝2回という実績もあり、サンボでも世界選手権2度の優勝を誇るビタリー・クズネツォフ。山下は両試合とも勝利したという。

空手も、近代から琉球空手家本部朝基が行っていたとされる掛け試しと呼ばれる他流試合が知られる。特に1922年(大正11年)に京都での異種格闘技戦興業に飛び入り参戦した拳闘家との試合で、外国人巨漢ボクサーを倒した一件が有名で、ほかにも拳闘家との試合やスパーリング等を行っている[5]


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