番町政策研究所
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番町政策研究所陰十四菊
略称山東派
前身改進党重光派)
後継志公会
設立1956年(昭和31年)
設立者松村謙三三木武夫
解散2017年
種類自由民主党の派閥
本部永田町法曹ビル
所在地東京都港区赤坂
会員数自由民主党所属国会議員
会長山東昭子
予算126,395,480円[1]
特記事項^ 平成22年分政治資金収支報告書参照

かつての呼び名政策研究会
新政策研究会
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番町政策研究所(ばんちょうせいさくけんきゅうじょ)は、かつて存在した自由民主党の派閥

1956年に設立。2017年志公会に合流して消滅した。

略称は番町研、通称は、松村・三木派→三木派→河本派→高村派→大島派→山東派。

参議院議員山東昭子は、自民党史上初となる女性の派閥領袖であった。
沿革
結成松村謙三

戦前二大政党の1つである立憲民政党、及び戦後中道政党である国民協同党の流れを汲み、重光葵が総裁であった改進党系の議員で構成され、自由民主党の「保守本流」(吉田茂の系譜を受け継ぐグループ。官僚出身者や党人派でも戦前の立憲政友会および、戦後の自由党の流れを汲んでいる)と呼ばれる党内主流派と対比させて、「保守傍流」などと揶揄された。
三木・松村派?三木派時代

自民党内では左派に相当し、異端の存在だった。勢力の弱い小派閥だったが、それを逆手にとって党内のキャスティング・ボートを握るなど強かな面も持っていたため、派閥領袖の三木武夫は「バルカン政治家」と呼ばれた。

三木は、石橋湛山池田勇人総裁時代に党幹事長に就任し、岸信介佐藤栄作総裁の下で残務整理の形で幹事長に留任する。松村謙三と三木の共同代表という形で政策研究会(松村・三木派)を結成し、政策同志会・政策懇談会を経て旧改進党系の中間派議員を取り込み派閥を拡大させる。1959年の総裁選には現職の岸信介に対抗して松村が出馬し、保守傍流同士の一騎打ちとなったが敗北。三木武夫

1964年の総裁選で再選したものの病気退陣となった池田勇人の後継について、党人である河野一郎を支持する松村と、幹事長の立場でもあり党内大勢に従い佐藤栄作を支持する三木が対立。松村とその支持者数名は小派閥の松村派を結成し離脱したため、ここから三木が単独で派閥領袖となり、三木派となる。1971年、三木派と同じく党内左派の石田博英が率いていた二日会(石田派)が合流し、三木派の形が完成された。

三木は、壮絶な角福戦争が展開された1972年の総裁選に出馬。自派の早川崇ら数名の福田赳夫への造反もあり最下位に終わるが、決選投票では田中角栄を支持し、田中政権誕生に貢献することで、影響力を維持することとなる。

田中政権の下では日中国交正常化に積極的という共通項から当初は主流派だったが、1974年の参院選で、三木の膝元である徳島県選挙区において、現職の三木派候補である久次米健太郎が非公認となり、新人の田中派候補である後藤田正晴が公認されるねじれ現象が起こった。激しい選挙戦の末、現職の久次米が再選するも、田中に強い不信感を持った三木はこれを契機に副総理を辞任し、反主流派へとまわった(三角代理戦争)。同年、田中首相が退陣すると大平正芳と福田の睨み合いの漁夫の利を拾うかたちで椎名裁定で三木が総理総裁に就任し、「困った時の三木派」と呼ばれた。

1975年ロッキード事件関与容疑での田中前首相の逮捕に関し、三木首相と稲葉修法務大臣中曽根派)が積極的に動いたとみられたことから、三木派と中曽根派以外の党内が反三木に傾き、三木おろしが始まる。三木は衆議院解散での打開を模索するが、党内多数派の強い反対により果たせず、異例の任期満了選挙として1976年12月の衆院選を戦う。自民党は事実上の分裂選挙となり議席減少し、その責任を取り三木は退陣した。反三木勢力に担ぎ上げられた福田赳夫の政権下では非主流派となる。

1978年の自民党総裁選には三木ではなく河本敏夫が出馬。中曽根康弘と並ぶポスト三角大福の総裁候補として認知された。田中派の強力な支援のもとで当選した大平正芳の政権下でも引き続き非主流派となる。

1979年10月の衆院選での再度の自民党議席減少を受け、福田派中曽根派とともに、大平首相の引責退陣を要求する。同年11月の首班指名で福田前首相を反主流派の統一候補として投票するも(四十日抗争)主流派に敗れ第2次大平内閣が発足した。この際、右派である福田を担ぐことは承服できないとして、三木派から数名が大平総裁へ投票している。

1980年社会党が提出した内閣不信任決議案の採決に、自民党から福田派中川グループと共に欠席し、不信任決議を可決させ(ハプニング解散)、衆参同日選挙となる(第36回衆院選第12回参院選)。同年6月の選挙中に大平首相が急死し、自民党が圧勝した。

なお、田中辞任直後には民社党から中道新党結成の誘いがあり、三木おろしや大平退陣運動の際には、三木派が中曽根派とともに新党結成を模索する動きが見られた。
河本派時代河本敏夫

1980年7月、鈴木善幸内閣の発足と同時に、三木派の大番頭で、ニューリーダーとして注目されていた河本敏夫に派閥を譲るため、三木派は解散した。直後、河本は三木派の大部分を集め、新政策研究会(河本派)を結成する。

通常、派閥の会長交代には派閥の解散は伴わないが、河本へ派閥を禅譲するためにわざわざ三木派を解散し、河本が新派閥を結成した背景には、「三木派の流れを直接汲んでいる河本派」では、河本が総理総裁を目指す上で他派の支持が得られないという理由があった。そのため、河本は三木の影を排除する必要があり、また三木もその意を汲んで河本派には参加しなかった。三木おろし以降の三木派は田中派と激しく対立していたのに対し、河本派時代には田中派との関係修復が進んだ。河本は政策的にも積極財政を唱え、財界との関係も深かったため、三木派時代までの「保守傍流」的な色彩は余り受け継がれなくなっていた。

鈴木首相が不出馬の1982年11月の総裁選に河本が出馬。一般党員による予備選挙において2位を確保して下位連合による本選挙での逆転を狙う戦略であったが、2位には達したものの首位の中曽根康弘が過半数を得たことから本選挙を辞退。これ以降河本は自身が実質的なオーナーを務める三光汽船破綻の影響や年齢的な問題もあり、名前はたびたび挙がるものの総裁選への出馬は果たせずに終わった。


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