畠山重忠
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 凡例畠山 重忠
畠山重忠公史跡公園の畠山重忠像
時代平安時代末期 - 鎌倉時代初期
生誕長寛2年(1164年
死没元久2年6月22日1205年7月10日) 享年42
改名氏王丸、重忠
別名庄司次郎
戒名實山宗眞大居士[注釈 1]ほか
墓所畠山重忠公史跡公園(埼玉県深谷市畠山)、重忠首塚(神奈川県横浜市旭区)ほか
幕府鎌倉幕府
主君源頼朝頼家実朝
氏族桓武平氏良文畠山氏
父母父:畠山重能、母:三浦義明の娘または江戸重継の娘
兄弟重忠、長野三郎重清渋江六郎重宗蓬莱三郎経重?
足立遠元の娘、正室:北条時政の娘
重秀重保、重政、円耀重慶、貞嶽夫人(島津忠久室)、女?(足利義純室?)[注釈 2]
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畠山 重忠(はたけやま しげただ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の有力御家人

源頼朝の挙兵に際して当初は敵対するが、のちに臣従して治承・寿永の乱で活躍、知勇兼備の武将として常に先陣を務め、幕府創業の功臣として重きをなした。しかし、頼朝の没後に実権を握った初代執権北条時政の謀略によって謀反の疑いをかけられて一族もろとも滅ぼされた(畠山重忠の乱)。館は、鎌倉筋替橋の東南。

存命中から武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」と称された。
生涯
頼朝への臣従

畠山氏坂東八平氏の一つである秩父氏の一族で、武蔵国男衾郡畠山郷(現在の埼玉県深谷市畠山)を領し、同族には江戸氏河越氏豊島氏などがある。多くの東国武士と同様に畠山氏も源氏の家人となっていた。父の重能平治の乱源義朝が敗死すると、平家に従って20年に亘り忠実な家人として仕えた。

治承4年(1180年8月17日に義朝の三男・源頼朝以仁王令旨を奉じて挙兵した。この時、父・重能が大番役に上っていたため領地にあった17歳の重忠が一族を率いることになり、平家方として頼朝討伐に向かった。23日に頼朝は石橋山の戦い大庭景親に大敗を喫して潰走[1]相模国に出陣した畠山勢は24日鎌倉由比ヶ浜で頼朝と合流できずに引き返してきた三浦氏一族と合戦になった。三浦氏は多々良義春とその郎従の石井五郎らの犠牲を出しながらも本拠地の三浦に戻ったが、畠山勢は重忠の郎従50余人が梟首され武蔵国へ退却[1]、重忠はこの会稽の恥をすすがんがため、三浦氏を襲おうと秩父一族で武蔵検校職の河越重頼に援軍の要請をする。要請に応じた河越重頼に江戸重長も加わり、武蔵国武士団数千騎を率いて、26日に三浦氏の本拠である衣笠城を攻め[1]27日一人城に残った母方の祖父である老齢の三浦義明を討ち取った(衣笠城合戦[1][注釈 3]

9月、頼朝は安房国で再挙し、千葉常胤上総広常らを加えて2万騎以上の大軍に膨れ上がって房総半島を進軍し、武蔵国に入った。10月4日、重忠は河越重頼、江戸重長とともに長井渡しで頼朝に帰伏した[1]。『源平盛衰記』によると重忠は先祖の平武綱八幡太郎義家より賜った白旗を持って帰参し、頼朝を喜ばせたという。重忠は先陣を命じられて相模国へ進軍、頼朝の大軍は抵抗を受けることなく鎌倉に入った。

重忠は御家人に列し、頼朝の大倉御所への移転や鶴岡八幡宮の参詣の警護などの『吾妻鏡』の記事に重忠の名が見える。また、養和元年(1181年)7月の鶴岡八幡宮社殿改築の上棟式で工匠に馬を賜る際に源義経とともに馬を曳いている。この頃に重忠は頼朝の舅の北条時政の娘を妻に迎えている。だが、この時期の重忠は父の重能がいまだに平家方にあったこともあり、必ずしも頼朝の信任を得ていなかったとする見方もある。また、同じ秩父一族の中でも小山田氏が重用されて畠山氏は待遇面で格差をつけられるなど、頼朝が一族間で待遇に格差をつけて内部分断を図ったとする見方もある[5]
治承・寿永の乱での活躍鵯越えで馬を背負う重忠。画:歌川国芳江戸時代

寿永2年(1183年)、平家を追い払って京を支配していた源義仲と頼朝が対立し、頼朝は弟の源範頼と義経に6万騎を与えて近江国へ進出させた。翌・寿永3年(1184年)正月、鎌倉軍と義仲軍が宇治川勢多で衝突。『平家物語』『源平盛衰記』には、義経の搦手[注釈 4]に属していた重忠が丹党500騎を率い、馬筏[注釈 5]を組んで真っ先に宇治川を押し渡ったが、馬を射られて徒歩になってしまい、同じく馬を流された大串重親が掴まってきたため大力の重忠は重親を掴まえて対岸に放り投げ、そのおかげで重親は他力本願での徒歩立ちの一番乗りの名乗りを上げ、敵味方の嘲笑をかったという話がある。

『平家物語』によると、義仲軍を撃破した義経は京に入り、後白河法皇の御所へ駆けつけ、重忠は義経らとともに後白河法皇に御簾越しに拝謁して名乗りを上げている。『源平盛衰記』では重忠は三条河原で義仲の愛妾の女武者・巴御前と一騎討ちを演じ、怪力で巴の鎧の袖を引きちぎり、巴は敵わないと見て逃げ出している。この宇治川の戦いで範頼、義経の鎌倉軍は勝利し、義仲は滅びた。

2月、範頼と義経は摂津国福原(現在の兵庫県神戸市)まで復帰していた平家を討つべく京を発向。重忠は範頼の大手に属している。『平家物語』では義経の搦手に属し、これを基に話を膨らませた『源平盛衰記』では鵯越の逆落としで大力の重忠は馬を損ねてはならずと馬を背負って坂を駆け下っている。一ノ谷の戦いで鎌倉軍は大勝して、平家は讃岐国屋島へと逃れている。

その後、頼朝は範頼に大軍を預けて中国九州へ遠征させているが、信用に足る史料である『吾妻鏡』ではこの軍の中に重忠の名は見当たらない。また、『源平盛衰記』では義経の軍に属して屋島の戦いを戦っているが、軍記物語だけに信頼性は低い。

元暦2年(1185年)3月、義経は壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした。
幕府創業の功臣

その後、頼朝と義経は対立し、義経は京で挙兵するが失敗して逃亡。


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