この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "畠山満家"
凡例畠山 満家
時代南北朝時代 - 室町時代
生誕文中元年/応安5年(1372年)
死没永享5年9月19日(1433年10月31日)
戒名真観寺殿真源道端
墓所大阪府八尾市真観寺
官位尾張守、左衛門督
幕府室町幕府管領、河内・紀伊・越中・伊勢・山城守護
主君足利義満→義持→義量→義教
氏族畠山氏
父母父:畠山基国、母:不明
兄弟満家、満慶
子持国、持永、持富
テンプレートを表示
畠山 満家(はたけやま みついえ)は、南北朝時代から室町時代にかけての武将、守護大名。室町幕府管領、河内・紀伊・越中・伊勢・山城守護。畠山基国の嫡男で満慶の兄。子に持国、持永、持富。
生涯畠山満家の墓と伝わる十三重石塔(八尾市・真観寺)。真観寺は満家を開基とする。
応永6年(1399年)の応永の乱では父と共に幕府軍の一翼を成し、敵将・大内義弘を討ち取る武功を挙げている。しかし、大御所の足利義満から疎まれ一時失脚する。家督は父の没後は弟の満慶が継承していたが、義満が死去し、第4代将軍・足利義持の治世になると、満慶から家督を返上され満家が当主となり河内・紀伊・越中3ヶ国の守護となった(「天下の美挙」と称えられた)。義持政権では重きをなし、応永17年(1410年)6月から応永19年(1412年)3月、応永28年(1421年)8月から永享元年(1429年)8月までの間に管領を務めた。応永31年(1424年)に伊勢守護に補任、正長元年(1428年)の北畠満雅の反乱で土岐持頼に交替、同年に山城守護に補任された。
義持が引退した後は第5代将軍・足利義量を補佐したが、義量が早世したため前将軍の義持が復帰することになり、再び義持の下で政務にあたった。応永35年(1428年)1月に、義持が死去した時、後継者を義持の弟4人のうちから籤引きで定めることを決めたのは満家である。この結果、青蓮院義円が還俗し、第6代将軍・足利義教となった。義教の代においても宿老として幕政に重きを成したが、永享5年(1433年)9月19日、62歳で死去した。法号は真観寺殿真源道端。家督は子の持国が継承した。
粛清を行なった将軍として恐れられた義教も、満家存命中はその行動を抑制されていた。満家は義教と鎌倉公方・足利持氏の融和に努めることで戦争を回避しようと努力していたが、満家が死去したことで義教を抑制する人物がいなくなってしまったため、以後は義教による粛清が行なわれることとなるのである。
偏諱を与えた人物
吉見家貞(吉見氏)
参考文献
国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 11 にた - ひ』吉川弘文館、1990年。
平野邦雄、瀬野精一郎編『日本古代中世人名辞典』吉川弘文館、2006年。
関連項目
越後応永の大乱
大和永享の乱
正長の土一揆
龍華
表
話
編
歴
室町幕府執事・管領
執事
高師直1336-1349
高師世1349
高師直1349-1351
仁木頼章1351-1358
細川清氏1358-1361
管領
斯波義将1362-1366
細川頼之1367-1379
斯波義将1379-1391
細川頼元1391-1393
斯波義将1393-1398
畠山基国1398-1405
斯波義重1405-1409
斯波義将1409
斯波義淳1409-1410
畠山満家1410-1412
細川満元1412-1421
畠山満家1421-1429
斯波義淳1429-1432
細川持之1432-1442
畠山持国1442-1445
細川勝元1445-1449
畠山持国1449-1452
細川勝元1452-1464
畠山政長1464-1467
斯波義廉1467-1477
細川勝元1468-1473
畠山政長1473
畠山政長1477-1486
細川政元1486
畠山政長1486-1487
細川政元1487
細川政元1490
細川政元1494-1507
細川澄之1507
細川澄元1507-1508
細川高国1508-1525
細川稙国1525
畠山義堯1526
細川晴元1536-1549