凡例畠山 基玄
時代江戸時代前期 - 中期
生誕寛永13年(1636年)
死没宝永7年2月20日(1710年3月19日)
別名二郎四郎(通称)
戒名浄観寺殿玄峯基玄大居士
墓所東京都港区芝公園の金地院
官位従四位上、侍従、民部大輔
幕府江戸幕府側用人
氏族河内畠山氏
父母父:畠山政信
兄弟基玄、義玄
畠山 基玄(はたけやま もとはる[2])は、江戸時代前期から中期の高家旗本。畠山政長の子孫。 300石の旗本畠山政信の長男として生まれる。祖父は紀伊国の戦国大名畠山貞政(政尚の子)である。慶安元年(1648年)6月20日、はじめて将軍徳川家光に謁見。 寛文4年(1664年)に家督を相続した。畠山氏は足利氏の支流で室町時代には三管領として栄えた名門家であるため、その畠山家の嫡流にあたる基玄を一般の旗本に留めておくことは惜しまれ、延宝7年(1679年)5月3日に奥高家に列し、またこの際に摂津国八部郡に300石を加増された。以降基玄の子孫は高家職を継承することになる。12月28日、従五位下侍従・民部大輔に叙任。さらに天和3年(1683年)3月25日、在京中に従四位下を授与された。貞享2年(1685年)4月27日に下野国都賀郡に500石を加増され、貞享4年(1687年)4月19日に従四位上に昇進した。 将軍徳川綱吉の基玄への信任は厚く、元禄元年(1688年)11月14日には1,000石加増とともに側用人に就任した。高家は一般の旗本・譜代大名の職には就任できないため、一度高家の列を離れて一般の旗本に戻っての就任であった。また側用人は譜代大名の職であって通常万石以下の旗本は就任できない。そのためこれは二重に異例の就任であった。 元禄2年(1689年)2月15日、さらに2,900石の加増あって都合5,000石となる。 元禄4年(1691年)2月3日、やはり大名職の奏者番に転じた。しかしなぜかこの頃に基玄は綱吉の信頼を突然失い、将軍への拝謁を禁止された。2月28日に拝謁は許されたが、5月28日に奏者番の職を取り上げられた。綱吉は感情の起伏が激しく、寵愛していた者を突然嫌うようになることはしばしばあった。その例は山内豊明・喜多見重政などにも現れている。この基玄の件についても綱吉のそうした異常な気性を考えれば不思議なことではなく、むしろ改易されなかっただけ基玄は運がよかったともいえる。 元禄9年(1696年)12月11日に再び奥高家となり高家の列に復帰。元禄10年(1697年)3月8日に高家肝煎の一人である大沢基恒が死去したため、その後任となる。元禄13年(1700年)2月5日、秋子内親王の誕生祝賀のため将軍名代として上洛。宝永4年(1707年)11月21日に隠居した。実子4人はみな早世したため、家督は養子の基祐 『鹿沼市史』によれば、畠山次郎四郎の、宝永初年度における知行地は以下の通りである[3]。 花岡村、上石川村、塩山村、野沢村、大和田村、下南摩村、佐目村
生涯
宝永初年度における知行地
脚注^ 京極高知の五男
^ 『寛政重修諸家譜』巻第九十八(『寛政重脩諸家譜 第1輯
^ 鹿沼市史編さん委員会 編『鹿沼市史』《前編》鹿沼市役所、1968年3月1日、196頁。NDLJP:3035361/130。 (要登録)
外部リンク
⇒畠山基玄 - Webcat Plus
先代
畠山政信高家河内畠山家当主
1664年 - 1707年次代
畠山基祐
表
話
編
歴
江戸幕府の御側御用人
牧野成貞1681-1695
松平忠周1685-1689
喜多見重政1685-1689
太田資直1686
宮原重清1688
牧野忠貴1688
南部直政1688-1689
柳沢保明1688-1709
金森頼?1689-1690
相馬昌胤1689
畠山基玄1689-1691
酒井忠真1693
松平輝貞1694-1709
松平信庸1696-1697
戸田忠時1704-1706
松平忠周(再任)1705-1709
間部詮房1709-1716
本多忠良1710-1716
松平輝貞(再任)1717-1730
石川総茂1725-1733
大岡忠光1756-1760
板倉勝清1760-1767
田沼意次1767-1772
水野忠友1777-1785
松平信明1788
本多忠籌1788-1790
戸田氏教1790
水野忠成1812-1818
田沼意正1825-1834
堀親?1841-1845
水野忠寛1859-1862