留萠鉄道
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留萠鉄道株式会社種類株式会社
市場情報非上場
本社所在地 日本
北海道雨竜郡沼田町恵比島641[1]
設立1931年(昭和6年)6月5日[1]
業種陸運業
事業内容鉄道事業 他
代表者代表取締役社長 田淵敬康[1]
資本金840万円[1]
関係する人物松本健次郎(初代社長)
田淵助六(2代社長)[2]
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留萠鉄道

昭和炭鉱での石炭積み込みの様子
1935年頃/昭和炭鉱絵はがき昭和炭鉱での石炭積み込みの様子
1935年頃/昭和炭鉱絵はがき
路線総延長17.6 km
軌間1067 mm
最大勾配 25[3] パーミル
最小半径160[3] m


凡例

 停車場・施設・接続路線(廃止当時) 


1.4
5.0
仮古丹浜


1.2
5.0
西留萠


1.0
5.0
北留萠


国鉄羽幌線


0.3分岐点


国鉄:留萠本線


0.0留萠




東留萠(信)


留萠本線


0.0恵比島




留萠本線


2.5本通 (乗)


4.8
8.0
幌新


6.24第三幌新太刀別川橋梁 46.63m


8.0袋地 (乗)


9.66幌新隧道 84.28m


12.0
18.0
新雨竜




雨竜炭砿(旧・浅野炭鉱)積出線


12.99太刀別隧道 166.97m


13.6宝沢 (乗) 1952-1963


14.0
21.0
太刀別 -1949/1963-


17.6
27.0
昭和


明治鉱業昭和炭砿積出線


九州鉱山太刀別鉱業所佐々木沢索道原動所


距離の下段は貨物キロ(鉄道省 1937

留萠鉄道(るもいてつどう)は、北海道雨竜郡空知支庁管内沼田町)および留萌郡留萌支庁管内留萌町(当時))でそれぞれ鉄道路線を運営していた私鉄。沿線の炭鉱の閉山により、沼田町内に所有していた路線(炭礦線)を最後に1969年に鉄道営業を休止、1971年に正式に廃止した。会社名は開業当初、留萠港周辺にも路線(海岸線)を所有していたことによる。

なお、「萠」は「萌」の俗字だが、本鉄道が存在した間の正式な表記は「萠」であるため、本項の表記はすべてこれによる。なお、地名等との齟齬については、1947年に留萠町が市制を施行する際に表記を正字の留萌市に改めたことによる。国鉄JR北海道)の路線名、駅名については1997年に正字に改められている。
概要

石狩川水系の雨竜川の支流である幌新太刀別川(ほろにたちべつがわ)流域に開発された雨竜炭田の各炭鉱から産出される石炭を留萌港に積み出すため、沿線各炭鉱を経営する明治鉱業安川財閥)や浅野同族浅野財閥)、三井鉱山三井財閥)によって京橋区銀座7丁目5番地に資本金250万円で設立された。

炭鉱の所在地が御料林であったことから宮内省株主に名を連ねていた。なお、当時の主な株主は明治鉱業1万株、浅野炭鉱(浅野財閥)1万株、生命保険協会1万株、三井鉱山3,500株、北炭3,500株、三菱鉱業三菱財閥)2,500株、住友炭鉱住友財閥)2,500株、大倉商事大倉財閥)2,500株、宮内省1,000株など。

鉄道路線は、留萠本線恵比島駅から分岐して上流の各炭鉱に連絡して昭和駅に至る炭礦線と、留萠駅から分岐して石炭積出港である留萠港を取り巻く海岸線(南岸線、北岸線)からなっていた。両線の間は、国鉄留萠本線により輸送を行なった。炭礦線は旅客貨物営業、海岸線は貨物営業のみ(後述のように当初は旅客営業も予定)を行ったが、開業時は本線用の車両を保有せず、国鉄(当時は鉄道省)に運行を委託した。国鉄では恵比島に駐泊所(深川機関区恵比島駐泊所)を設置し機関車1両が常駐した[4]

1939年、天塩鉄道敷設に伴って留萠駅構内配線の改良がなされると、これに連絡する海岸線は1941年10月買収・国有化されて留萠駅の構内側線となり、以降は炭礦線のみとなった。

戦後には松本健次郎初代社長と他4名が公職追放により辞任し、専務の田淵助六が社長に就任[2]。1952年には客貨分離が行なわれ、漸く自社の機械式気動車による旅客列車の運行が開始されたが、貨物(混合)列車は国鉄による運行管理が引き続き行われ、国鉄機がこれを牽引した。1955年に液体式気動車が増備されるに及び、留萠本線恵比島 - 深川間への直通運転が計画され、翌1956年5月に実施された。その後、自社発注のディーゼル機関車導入に伴って1960年10月末日をもって国鉄との運転管理委託を解除し、すべての列車を自社運行とした。1958年にはロータリー式除雪用ディーゼル機関車DR101CLを導入した。これは留萠鉄道傍系の三和興業(のちのNICHIJO)が開発して新潟鐵工所で製造したもので、ロータリー装置を脱着可能な1067mm軌間のディーゼル機関車としては日本初のものであり、国鉄DD14形開発の先駆となったことから、留萠鉄道は運輸大臣から表彰を受けている。

沿線炭鉱の順調な出炭に支えられて昭和30年代までの経営状況はきわめて良好で、液体式気動車も5両を数えるほどであったが、1968年11月に雨竜炭鉱、翌1969年4月に昭和炭鉱、太刀別炭鉱が相次いで閉山すると存在理由を失い、同年5月に営業休止して会社更生手続きに入った。この間、砕石事業などを主体とする会社再建案も検討されたが、子会社の倒産も相次いだことから翌1970年11月には会社の清算が決まり、運行再開することなく1971年に全線を廃止した。
炭礦線

炭礦線(たんこうせん)は、北海道雨竜郡沼田町の恵比島駅から同町内の昭和駅を結ぶ17.6kmの路線で、沿線の炭鉱(昭和炭鉱浅野炭鉱)から産出される石炭を留萌港に輸送する使命を担った。


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