留守所
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武蔵国府跡 史跡整備地(国衙跡)

国衙(こくが)は、日本律令制において国司が地方政務を執った役所が置かれていた区画である。

国衙に勤務する官人・役人(国司)や、国衙の領地(国衙領)を「国衙」と呼んだ例もある。

令制国の中心地に国衙など重要な施設を集めた都市域を国府、またその中心となる政務機関の役所群を「国衙」、さらにその中枢で国司が儀式や政治を行う施設を国庁(政庁)と呼んだ。
遺跡と区画国衙の中枢にあった建物の柱跡

主な国衙遺跡には、武蔵国衙府中市)、周防国衙(防府市)、伯耆国衙(倉吉市)、常陸国衙(石岡市)、近江国衙(大津市)、土佐国衙(南国市)などがある。これらの国衙遺跡から、各国の国衙区画プランにいくつかの共通点があることが判っている。

国衙の中心的な施設として、国庁正殿が置かれた。正殿の前後には、前殿・後殿が設置される。正殿は北寄り正面に南向きに建てられることが多かったので、脇殿は東西に置かれ、それぞれ東脇殿・西脇殿と呼ばれた。中央を広場とした。建物配置は左右対称である。これらの官衙群は築地塀・掘立柱塀で囲まれた区域内に整然と配置されており、この国衙域はおよそ数十メートルから100メートル前後四方に区画されていることが多い(例:南北300メートル、東西200メートル[1])。敷地の周囲は掘立柱の板塀や築地塀や溝で区画し、南に門を置く。建物構造は掘立柱や礎石建ちの二種。

ただし、国庁正殿や国衙域の規模は、各国ごと、時代ごとに異なっており、各国衙区画プランを比較すると共通点よりむしろ差異が目立つ。国庁の周囲には、事務消耗品・備品や武器を製作する工房や食事のための厨屋など(これらを曹司という)の他、国司の生活の場である国司館、租税を収蔵する正倉などが配置されていた。これら建築群の配置態様は、各国によって全く異なっている。

国庁・郡庁は全国的に見ても、遺跡の判明しているものはきわめて少ない。その理由としては、廃絶後長年月が過ぎていて遺跡が忘れ去られていることが多いことや、大部分が掘立柱建物なので地表に遺構をとどめることがないことなどがあげられる。
沿革

最初期の国衙は、律令制構築段階の7世紀後期に登場したと考えられている。しかし、この当時は地方政治制度が十分に確立していなかったので、後に見るほど確固とした国衙が成立したわけではなかった。8世紀前期から中期にかけての時期、国衙は安定的に営まれるようになる。この時期が国衙の成立期だとされている。

ただし、「国衙」という言葉は、律令制が成立した7世紀後期から8世紀初期にはまだ存在しなかったとする見方が強い。律令条文においては、後世の国衙に相当する語として、「国司」もしくは「庁(国庁・政庁)」が用いられて、公文書では「国府」という表現も見られる。唐(中国)においても律令の公式解説書である『唐律疏義』の闘訟律に「衙府」という表現が用いられていることから、唐風表現が意識された8世紀後半に漢詩などの文学表現の場で官庁施設の美称として「衙」という表記が用いられたものが一般化したと考えられている。『続日本紀』では宝亀11年(780年)7月戊子条に初めて「国衙」という表現が登場している[2]

国衙には、律令の規定に基づいて守・介・掾・目の国司四等官と書記官である史生が勤務した。この他の国衙職員としては、国博士・国医師・国師といった専門職員や雑徭によって徴発された徭丁らがいた。合計すると小国では数十人、大国では数百人とかなりの規模の人数が勤務しており、国衙を中心に都市的な領域が形成されていた。

9世紀頃から律令法制と社会実情が次第に乖離していき、同世紀末には律令規定に基づく地方統治が困難となると、10世紀前期、朝廷は統治権限を大幅に国司へ移譲する国制改革を行った(これにより成立した体制を王朝国家体制という)。国司は大幅に増えた権限に対応するため、国衙機構の強化に努めるようになり、租税収取を所管する部署(税所・田所・大帳所・出納所など)や、軍事を所管する部署(健児所・検非違使所・厩所など)、所務・雑務を所管する部署(政所・調所・細工所・膳所など)を国衙に整備していった。同じ頃、国司が任国へ赴任せず(遙任という)、目代という代理人兼監督者を現地派遣し、現地の有力者や官人(在庁官人という)に国衙政治を任せるケースが増えていた(平安中期頃から遙任の場合の国衙を「留守所」と称するようになった)。11世紀12世紀になると、国衙政治の実務は事実上在庁官人が担うようになっており、受領国司は在庁官人の力なしに国内統治を果たすことはできなかった。

11世紀中期頃から荘園の増加が著しくなり、従来、国衙が支配していた公田が次第に減少していった。国衙はこれに対抗するため、支配する公田を領域的にまとめて、郡・保・郷・条などの支配単位に再編成した。こうして国衙は自らの支配域を領域化することに成功し、こうして成立した国衙の支配域を国衙領という。

鎌倉時代になると、幕府は各国へ守護を設置した。守護は検断権のみが認められていたのであり、国衙の統治権を侵害する存在ではなかったが、守護が所在した守護所はしばしば国衙の近隣に営まれ、国衙・守護所両者の機能が次第に一体化する傾向が見られ始めた。

室町時代の守護は検断権だけでなく更に強力な統治権限が認められたため、守護は積極的に国衙の統治権限を蚕食していった。その結果、室町前期のうちに国衙機構は守護所に取り込まれ、ほとんどの国衙は実質的に消滅した。
遺称地名周防国衙跡の碑(防府市国衙三丁目)

国衙が地名として残存している例はそれほど多くないが、防府市国衙(周防国衙跡)が比較的有名である。

兵庫県姫路市の姫路駅南東部には過去に自治体として国衙村が存在していた。これは同地にあった国衙荘に由来する(播磨国府はそれより北方に位置したとみられる。後述)。

そのほかの地名としては

山梨県笛吹市御坂町国衙(甲斐国衙跡)

群馬県安中市松井田町国衙(上野国衙跡)

兵庫県南あわじ市神代国衙(淡路国衙跡)

がある。
遺跡下野国庁跡の前殿(復元)近江国丁跡の碑肥前国庁跡の南門(復元)
陸奥国府跡(郡山遺跡多賀城
当初の陸奥国府は宮城県仙台市に所在する郡山遺跡に官衙が置かれていたが、神亀元年(724年)に多賀城(同多賀城市)に移ったと考えられている。


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