留学
[Wikipedia|▼Menu]

留学(りゅうがく、るがく)とは、自国以外のに在留(ホームステイ等)して学術・技芸を学ぶことをいう。3か月以内を短期留学、それ以上を長期留学と言う。広義には自国内の遠隔地に生活拠点を移して学術・技芸を学ぶこと(国内留学)を含める場合もある。

留学している人を「留学生」(りゅうがくせい、るがくしょう)という。

上位概念として「遊学」があり、国内外の留学を意味する言葉があるが上記の通り留学や国内留学という言葉が使われている(ここでの「遊」という意味は「本拠とする場所から離れる」という意味。)。

留学の目的は様々であるが、特に一般的なのは外国語を学ぶための留学(すなわち「語学留学」)である。
概説
近代化と留学

近代における留学は、欧米では依然として以上のような人格完成を意味していたのに対して、かつての日本など近代化を目指す国にとっては、国を代表して先進の文明を学んでくるといった気負いが加わり、現在の留学のニュアンスにもその名残りが感じられる。これらの留学生は、自国に戻ってから政治経済の近代化に大きく貢献した。とりわけインドベトナムカンボジア等の旧植民地諸国では、宗主国への留学生が中心となって行われた[要出典]。

一般に、国が発展途上段階にあり、留学先の国との近代化の程度のギャップが大きい場合ほど、留学によって得た知識が生きる可能性が大きいといえるが、留学先が自国に比して顕著に先進的な国である場合には、留学費用などの点で、官費留学や社費留学などのシステムが整備されていないケースには留学が難しくなる。また、自国が発展途上の段階にある場合には、そもそも出国や留学先の入国に法律上・事実上の制限があったり、外貨持ち出しの制限など経済的な制約が強い場合が多い。しかしそれでも一部の国では、学費が無料であったり、あるいは留学生に援助金を出したりするところもあるため、発展途上国から留学する学生も多い。
グローバル化と留学

そして、グローバル化が進むなかで、先進国から途上国への留学もみられるようになり、今日の留学は相互交通的、多元的な時代に入っている。文化や制度習慣常識は国によって大きく違うことから、留学する際には事前調査と計画をしっかり立て、カルチャーショックなどにも備えておく必要があるとされるが、また、逆にそうしたことから自国の文化や制度、価値観や常識を見つめなおすことができるのも留学の利点とされ、近代化の枠組みを超えた、外国語の習得や様々な人脈の形成、自己啓発自己鍛錬などを動機とした留学が後進国でも増えている。語学留学の場合、アメリカイギリスを中心にした英語留学(その他の国にカナダフィリピンアイルランドニュージーランドオーストラリアフィジーなど)や、フランスでのフランス語習得、ドイツでのドイツ語習得、中国台湾での中国語習得などを目的としたものが一般的となっている。
国内留学

国内留学については、都市部の学生が国内の地方に留学し通常の教育のほかに自然体験などを行う山村留学や、官庁学校などの教職員が現職のまま国内の他の大学や研究機関に派遣される内地留学が行なわれている。
留学の制度
交換留学

高校生の生活体験留学

アユサ[2]

AFS

YFU

自治体 - 姉妹都市協定を結んでいる都市間で行われる生活体験留学

ロータリークラブ - 各国のロータリークラブ間の協定に基づき行われる生活体験留学


大学間協定に基づく

交換留学


機関間協定に基づく

交換留学


私費留学

自己負担による留学。官費留学に対応する概念として存在するが、企業の従業員が企業の費用負担で派遣される留学に対比して、自らの出費にて留学する場合の概念としても用いられる。
官費留学

国が費用を負担する留学。若手官僚等を将来、国の役に立つ人材として育成するために行う。日本では1966年から行政官長期在外研究員制度(入省8年未満の若手官僚を2年間海外留学させる制度)によって毎年三百数十人が留学している。ただ、留学終了後に所属機関を辞め転職したり、母国へ帰らずそのまま現地に居座ることが問題になることがある。日本では2006年に留学から一定期間を経ずに本人の責任によって退職する場合は留学費用の返済を義務づける国家公務員の留学費用の償還に関する法律が制定された。
公費留学

内外の財団等による留学。大学在学中に留学できるものや、ロータリークラブなど大学卒業後に留学できる制度もある。留学終了後の進路は自由。
社内留学

企業が費用を負担して従業員を派遣する留学。官費留学と同様、転職などの問題がある。
外国政府等奨学金留学

各国大使館を通して応募する留学。留学先大学、専攻など、選考後も折衝が必要。
日本からの留学

島国である日本では、留学の歴史は古く、古来から新知識、新技術は海を越えて大陸への留学によって持ち帰られたものだった。
古代遣唐使船

古代日本において、稲作金属器文字仏教などは主に中国大陸朝鮮半島からの渡来人によって伝えられたものであったが、6世紀末頃からは、大和王権による中国への留学生の積極的な派遣が始まり、新知識、新技術の吸収が本格的に行なわれるようになった。記録に残されている最初の留学生は、588年百済へ派遣された善信尼ら5人の若いで、受戒の法を学び590年に帰国している。

この頃の日本には、造船や操船の技術が未発達で、留学はまさに命を賭しての一大事業であった。奈良時代以降の遣唐使遣隋使に付き従った学生、学問はまさにそれで、目的地にたどり着けない者、異国で学業を身につけたものの、終生帰国できなかった者も少なくない。遣隋使に付き従った高向玄理南淵請安らは、20?30年にわたって中国で生活し、帰国後は律令国家の建設において大きな役割を果たした。また、遣唐使が派遣されるまでは新羅に渡る僧も少なくなかった。遣唐使とともに派遣された著名な学生、僧としては、道昭吉備真備阿倍仲麻呂らがいる。なお、「留学生(るがくしょう)」という言葉が生まれたのもこの頃である。

平安時代に入ると、請益の制度による短期間の留学が主流になり、遣唐使とともに帰国するケースが増えた。最澄空海は、天台密教を学び、最後の遣唐使には、円仁が同行した。この頃の留学の費用は日本の朝廷から支給され、中国での生活費は中国側から支給されるのが一般的であった。9世紀半ばの遣唐使断絶後は、円珍など、商船に乗って唐に渡る僧が見られるようになった。
中世から近世

12世紀に入ると、大陸・南宋との交流が盛んになり、大陸仏教への関心も高まり、重源栄西覚阿ら各派の僧が相次いで南宋に留学した。とりわけ栄西による帰国後の新宗教活動は国内の僧に大きな影響を与え、その後、道元覚心らの積極的な留学を呼ぶこととなった。

元寇後は大陸との関係が途絶するが、14世紀初頭から、私的留学を行う僧らの渡航が活発化し、代にかけて留学僧の往来の最盛期をむかえる。雪村友梅ら長期にわたってを学ぶ者が多かった。しかし、室町時代に入ると倭寇対策のため日明貿易以外では中国への渡航が禁止される。その後、戦国安土桃山時代天正遣欧使節朱印船貿易江戸時代鎖国体制においても、事情は変わらなかったが、異国への窓口であった長崎出島)への国内留学によって、細々とではあったが海外からの文化が国内に入っていた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:67 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef