町田忠治
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日本政治家町田 忠治まちだ ちゅうじ

生年月日 (1863-05-17) 1863年5月17日
出生地 出羽国秋田郡秋田保戸野八丁
没年月日 (1946-11-12) 1946年11月12日(83歳没)
死没地 日本 東京都牛込区
出身校帝国大学法科撰科 修了
秋田師範学校中学師範予備科 卒業
前職実業家
所属政党(立憲国民党→)
立憲同志会→)
憲政会→)
立憲民政党→)
(無所属→)
翼賛政治体制協議会→)
翼賛政治会→)
大日本政治会→)
日本進歩党
称号正三位
勲一等瑞宝章
勲三等旭日中綬章
配偶者町田孝子
国務大臣
内閣小磯内閣
在任期間1944年7月22日 - 1945年4月7日
第34代 大蔵大臣(兼任)
内閣岡田内閣
在任期間1936年2月27日 - 1936年3月9日
第11代 商工大臣
内閣岡田内閣
在任期間1934年7月8日 - 1936年3月9日
第6代 農林大臣
内閣濱口内閣
第2次若槻内閣
在任期間1929年7月2日 - 1931年12月13日
その他の職歴
第4代 農林大臣
1926年6月3日 - 1927年4月20日
衆議院議員(4-10期)
1924年5月11日 - 1946年1月4日
衆議院議員(1-3期)
1912年5月16日 - 1920年2月26日
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町田 忠治(まちだ ちゅうじ、文久3年3月30日1863年5月17日) - 昭和21年(1946年11月12日)は、明治から昭和期の政治家実業家ジャーナリスト

衆議院議員(当選10回)。立憲民政党日本進歩党総裁、農林大臣商工大臣大蔵大臣(兼任)などを歴任したが最晩年は公職追放された。正三位勲一等。号は幾堂。愛称はノンキナトウサン
生涯
生い立ち

出羽国秋田郡久保田城下の秋田保戸野八丁新田上丁(現秋田県秋田市保戸野八丁)に秋田藩士・町田伝治の四男として誕生。父伝治は3歳の時に亡くなったため、祖父町田平治と母シン子によって育てられた。大正期の『中央公論』編集長・滝田樗陰は甥にあたる。

1875年(明治8年)に叔母町田直の養子となり、家督を継いだ。学齢に達して、初め近くので和漢学を学び、学制施行後は西郭学校(現秋田市立保戸野小学校)に入学したが、間もなく太平学校付属小学校(現秋田大学教育文化学部附属小学校)に転校した。

1876年(明治9年)には太平小学校の中学科が名称変更になった変則中学科に進学した。中学科は間もなく中学師範予備科(現秋田県立秋田高等学校)と改称され、1880年(明治13年)に卒業した。町田の秀才ぶりは「保戸野の神童」と言われるほどで、手形井上広居、楢山の田中隆三とともに有名だった[1]
大学進学

卒業後、一木喜徳郎らと共に成立学舎で学び、県費留学生として東京大学の予備課程である大学予備門に入学した。東京の風土生活が体になじまず、やがて脚気を患い、病気療養のため一時学業を中断して帰郷した。1883年明治16年)、秋田日報(秋田魁新報の前身)の主筆に招聘され秋田に滞在した犬養毅に出会う。大隈系の人脈に連なり、改進党系の新聞に記者となり、後に、政党政治家となる端緒となった。

1884年(明治17年)、秋田まで町田に再上京を促しに訪れた予備門時代の同級生内田康哉とともに上京。東京大学法学部撰科に入学し、本科に進学した内田康哉・林権助ら予備門時代の同期生と机を並べる。再び県費留学生に選ばれ、1887年(明治20年)に帝国大学法科大学撰科を修了した。大学予備門を修了していないため正科卒業とはならず、法学士号を得ていない[2][3]
記者生活

大学の恩師金子堅太郎の勧めで、法制局に勤務するものの当初の志望通り1年で退官し、1888年(明治21年)に論説記者として「朝野新聞」に入社した。これは犬養毅の手引きによるものだったが、犬養・尾崎行雄らとともに論陣を張った。藩閥政府の弾圧によって同新聞の経営が困難となり、1891年(明治24年)11月には尾アらとともに大隈重信の「郵便報知新聞」に移り、犬養・尾アが国会議員となると実質上経営の実権者となった[1]。また、財政学を学んでイタリアの碩学、ルイージ・コッサ(Luigi Cossa)の「財政学」を翻訳して著し早稲田専門学校では教科書用に採択した。
外遊の成果

1893年(明治26年)5月に横浜港からアメリカ経由でイギリス外遊した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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