町田久成
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伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。人物の伝記は流れのあるまとまった文章で記述し、年譜は補助的な使用にとどめてください。(2015年9月)

日本政治家町田 久成まちだ ひさなり / ひさすみ

生年月日 (1838-01-27) 1838年1月27日天保9年1月2日
出生地薩摩国鹿児島郡鹿児島城下千石馬場通(現・鹿児島県鹿児島市
没年月日 (1897-09-15) 1897年9月15日(59歳没)
死没地東京府東京市下谷区(現・東京都台東区
称号従四位勲三等
元老院議官
在任期間1885年3月10日 - 1889年12月26日
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 凡例町田久成
時代江戸時代後期 - 明治時代
改名五郎太郎(幼名)→久成→石谷(法号)
別名助太郎、民部(通称)
戒名一乗比丘久成
墓所滋賀県大津市長等山の園城寺子院・法明院
東京都台東区上野桜木の津梁院
主君島津斉彬忠義
薩摩鹿児島藩
氏族町田氏
父母父:町田久長、母:汲(小松清穆の長女)
兄弟久成、小松清緝
小松清廉の娘
子秀麿
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町田 久成(まちだ ひさなり / ひさすみ、1838年1月27日天保9年1月2日) - 1897年明治30年)9月15日)は、明治時代日本官僚僧侶。旧薩摩藩士島津氏庶流)。通称・民部、号は石谷。

慶応元年(1865年)、他の18名と共にイギリスへ留学。東京国立博物館の初代館長となる。後に出家して三井寺光浄院の住職となり、僧正となる。実弟に小松清緝(改名前は町田申四郎実種)[1]小松清廉の妻の千賀は叔母にあたる。
略歴 湯島聖堂博覧会のスタッフ。前列左から3人目が町田 僧侶姿の町田

町田久長(伊集院郷石谷[2]領主)と母(汲、吉利郷[3]領主小松清穆の長女)の長男として鹿児島城下千石馬場通りの町田屋敷にて出生。

19歳の時江戸の「昌平坂学問所」にて就学[4]。同時に有馬新七と出会う。

1859年、江戸就学を終え薩摩へ帰郷。御小姓組番頭となる。

1863年、大目付に取り立てられる[4]。「薩英戦争」に本陣警護隊長として参戦。部下に東郷平八郎

1864年、「薩摩藩開成所」設立に参加。小松帯刀(家老)、町田久成(大目付・学頭)、大久保一蔵(側役)連名による。

1864年、「禁門の変(京都)」に六郷隊(兵士約600人)の隊長として参戦。

1865年、1月薩摩藩英国留学生15名を率いて英国留学に出発[5]。10月よりロンドン大学ユニバーシティカレッジ法文学部の聴講生となる。

1867年、2月パリ万国博覧会に参加。6月、英国より帰国すると中井弘と共に上京し大久保利通、西郷隆盛らの武力討幕方針に反対する。

1868年、1月参与職外国事務掛となる(同僚に五代友厚寺島宗則伊藤博文井上馨等)。

その後、参与職外国官判事・長崎裁判所判事・九州鎮撫使参謀・外国事務局判事・外国官判事・外務大丞(外務大臣の直下)

1869年、7月英国第2王子エディンバラ公アルフレッドの接待責任者を務める。9月、天長節の参賀に無断欠席したため謹慎処分を受ける。[6]

1870年、9月大学大丞に異動。大学南校物産局勤務の時、田中芳男(幕府使節としてパリ万博参加)と再会。「日本初の博物館創設計画」の始まり。

1871年、5月西洋医学所薬草園にて「物産会(博覧会)」を開催。大学は文部省へと変わると文部省博物局を設置し、「古器旧物保存方」および「集古館」建設を提言。

1872年、3月湯島聖堂にて「湯島聖堂博覧会」を開催しウィーン万博への出品物を披露。「名古屋城等保存ノ儀」を建議[7]。5月壬申検査を主導。

1873年、4月「内山下町博物館」開館。

1874年、フィラデルフィア万博事務局長となる。

1875年、「浅草文庫」設置。

1877年、博物局長としてクリストファー・ドレッサー正倉院を案内した[8]

1880年、4月博物館主導で上野公園内で「観古美術会」開催

1882年、3月 東京帝室博物館(後の東京国立博物館)初代館長に就任

同年10月 東京帝室博物館長を辞職

1883年、園城寺子院・法明院桜井敬徳師より奈良東大寺戒壇院において円頓菩薩戒を授けられる。10月農商省博物局勤務。杉孫七郎の要請により博物館の宮内庁への移管手続きを手伝う。

1885年、3月元老院議官となる。岡倉天心フェノロサビゲローが町田宅で受戒。

1889年、12月元老院議官を辞職

1890年 園城寺子院・光浄院住職となる

1893年 ビゲローとともにシカゴ万博、万国宗教会議に参加

1897年、9月15日療養先の寛永寺明王院で死去

1912年、東京帝室博物館(現在の東京国立博物館本館北側[9])の庭園に井上馨杉孫七郎らの提案で顕彰碑が建立された。碑文は重野安繹が作成した。

人物 没後制作された竹内久一による町田の像。1912年

ヨーロッパ滞在中に博物館事業の重要性を認識し、維新改革、廃仏毀釈の流れの中で多くの美術品が破壊、また海外に流出していくのを惜しみ、博物館創設事業に携わる[4]。官費が不足する中で私財を用いて収集を続け博物館の所蔵品充実に尽力した。書画篆刻を自らよくし、美術品の鑑定眼が優れていた。


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