町年寄
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町年寄(まちどしより)は、江戸時代の町政を司る町役人の筆頭に位置するものである。地域によってその名称は異なり、江戸長崎京都甲府福井鳥取敦賀小浜尾道酒田などでは町年寄だが、大坂岡山高知今井平野鹿児島では惣年寄(総年寄)、名古屋で惣町代姫路和歌山松江松坂では町大年寄、岡崎では惣町年寄頭、青森では町頭、新潟では検断と呼んだ[1]。選任方法は、世襲制の場合と選挙で決められる場合とがあった[1]
江戸町年寄

江戸町人地の支配は町奉行が行い、町奉行の下に3人の町年寄がいた。各町には町名主がいて、町年寄の支配を受けた。また、町年寄の下には江戸の町地の区画整理や地所の受渡しに携わる地割役も付随した。3人の町年寄は、いずれも江戸草創期以来の旧家で、奈良屋・樽屋・喜多村の三家が代々世襲で勤めた[2][3][4]。この3家の家格は奈良屋・樽屋・喜多村の順となる。
奈良屋

享保10年(1725年)8月に提出された由緒書によると、三河時代の徳川家康に仕えていたと記され、また奈良屋の先祖は大和国奈良に住んでいた大館氏の一族で、これが「奈良屋」という屋号の元となった[2]天正10年(1582年)に本能寺の変織田信長明智光秀に討たれた際、家康が伊賀越えで逃れようとした時に従った人物の中に奈良屋の先祖である小笠原小太郎がいたという記録が残っている。

当主は代々市右衛門を名乗っていた[2]。7代市右衛門は享保の改革で問屋仲間結成の事務を中心になって担当し、8代市右衛門は猿屋町会所において札差仕法改正の業務を勤め、猿屋町会所勤務中の帯刀を許される[2]

10代目の市右衛門は文政4年(1821年)に猿屋町会所の業務によく勤めたとして白銀10枚を与えられ、同7年(1824年)に一代限りの帯刀を許され、天保5年(1834年)に苗字を許され館と称することになる[2]など、その活躍がもっとも目立つ人物である。
樽屋詳細は「樽屋」を参照

樽屋の先祖は刈谷城城主の水野忠政で、その孫である樽三四郎康忠は徳川家康の従兄弟にあたり、天正18年(1590年)の家康江戸入りにも三四郎は従った[3]。町年寄への就任は同年8月15日であるが、由緒書によれば初代は三四郎の子の藤左衛門忠元である。当主は代々藤左衛門を名乗る[3]が、後見役として町年寄に就任した者は与左衛門を名乗っている[3]

12代目樽屋与左衛門は、郷士の家に養子に行った樽屋武左衛門の家系で、40歳の時に江戸に呼ばれて後見人となった。寛政の改革において札差仕法改革に貢献し、猿屋町会所勤務中の帯刀を奈良屋市右衛門と共に許された[3]。退役後も株仲間政策の推進に従事した。

樽家の墓は蔵前浄土宗西福寺にある[3]。他の町年寄2家の墓所は不明である。
喜多村

喜多村は、その先祖が家康に従って江戸入りし武士として奉公していたが、初代文五郎が町人になりたいと願ったため「御馬御飼料の御用」と「江戸町年寄役、関八州の町人連雀[5]商札座、長崎糸割符三ヶ条の御役儀」を命ぜられたという。また、喜多村は明智光秀の子孫であるとする伝承がある[6]が、裏付けはできていない[7]。文五郎が隠居する際、家督を二分し、婿の彦右衛門へ町年寄役を譲り、他は実子文五郎へ相続させたと由緒書にある。この2代目彦右衛門は金沢の町年寄からの入婿である。

当初は、喜多村は町支配の他に、馬の飼料を補給する役割と連雀商札座の特権を与えられていたことになる。

初代弥兵衛の後は、彦右衛門または彦兵衛と名乗る者が多かった。最後の当主は又四郎を名乗った[4]
町年寄と将軍

江戸時代の初期には、町年寄をはじめとした江戸の町人たちと将軍との接触があった。

寛永11年(1634年)7月、徳川家光が上洛した際に、江戸の町年寄たちが「御祝儀」として供をし、樽屋藤左衛門が御目見得を仰せ付けられたことが記録されている。

喜多村家の由緒書にも、町年寄2代目の彦右衛門が家光に水泳や鼓の稽古をつけており、上洛の時、徳川家光富士川を渡る際に先導をつとめたという記述が残されている[8]

このような将軍との交流は、時代を経るに連れて無くなっていったが、将軍の代替りに伴う御礼出頭と正月の年頭御礼は毎回行われた。

元和年間(1615 - 24)から定例になったと言われる正月三日の御目見得では、大坂惣年寄や京都の町年寄など他国の町人達も共に拝謁するが、その際江戸の町年寄は全国の町人の筆頭として列席した。また、拝謁は江戸城帝鑑の間で行われるが、敷居内に進めるのは町年寄のみで、他の御用達町人は敷居外での拝謁とされた[9]

将軍は正月に上野東叡山寛永寺三縁山増上寺への墓参を執り行うが、その際の御目見得も定式化されたものであった。他にも法事のための市中への御成日光社参の時にも、町年寄たちは道筋で御目通りすることが許されていた[10]
町年寄の職務

町年寄は町役人の筆頭であり、その業務は多岐にわたった。

町年寄の屋敷地は幕府から拝領されたものであり、奈良屋・樽屋・喜多村でそれぞれ本町一丁目・二丁目・三丁目の本町通りに面した角地にあった。武家と同様に住居は役宅を兼ねており、これを町年寄役所と呼び、様々な執務を執り行った。
町の統制

享保以前の町奉行所の職制がまだ整っていない時期には、奉行所には民政に関する職掌は存在せず、町触を通じて統制を行う程度で、具体的な業務に関しては町年寄が町奉行の意を受けて担当していた[11]

元禄のころには問屋仲間の結成が行われるようになり、それらの組合結成事務は町年寄の仕事であった。享保8年(1723年)4月には、質屋や古着屋など紛失物の調査に関係する商売人に対し、組合帳面を3冊作成させ、2冊は印鑑を押さず南北町奉行所に提出し、残る1冊は印形を押して町年寄に提出せよと命じている。これらの組合帳簿の保管も町年寄の業務であった。また、組合への新規加入、相続・改名・株の譲渡などは、必ず届け出ることが義務づけられた[11]

他にも、安永2年(1773年)9月の薪炭仲買組合の定めでは、株仲間への加入・株の譲渡・休業など、組合運営に関わる事柄は全て樽屋に届け出ることが義務づけられている。そして18世紀初頭には、当時1800挺もあったと言われる町駕籠を600挺に制限し、焼印を押させて樽屋に管理するように命じた[11]


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