町または字
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日本の町・字

町・字(まちあざ/ちょうあざ)は、日本市区町村の下に置かれる区画である、「」(ちょう/まち)と「」(あざ)を合わせた言葉である。「町または字」「町もしくは字」「町字[注釈 1]」などとも記される。
概要

町・字は、いずれも固有の名称を持ち境界を有する土地区画であり、土地の登記簿などにおける公的な土地の所在地や、住民票戸籍などに記載される住所を示すのに用いられ、異なる来歴を持つが現行法により明確な区別がない「町」と「字」の2種類からなる。また「字」は「大字」(おおあざ)と「小字」(こあざ)に区分される。例外はあるが、近世からの町、それを含む市に編入された地域や、住居表示に関する法律に基づく住居表示が施行された地域など、主に市街地に置かれた「町」と、明治の大合併前の旧町村を起源とする「大字」があり、これら「町」や「大字」の中の小さな(細かい)区分として「小字」が位置付けられる。

町・字は、住民票や戸籍など日本における住所表記の基礎となる土地区分であり、住所表記の際に市区町村の後、地番(住居表示に関する法律に基づく住居表示が施行されている地域では、同法における街区符号住居番号)の直前に記されるものである。これら町・字を大きな区分から順に(例えば、大字と小字がある土地では、大字を先、小字を後に)記し、その後に地番等を記すことで、住所(所在地)を表記する。なお、市町村によっては住民票や戸籍などの住所の表記において小字を表記しないことから、その市町村の全域もしくは一部地域における住民票や戸籍などの住所に町・字(小字を除く)が設定されず、市町村のあとにすぐ地番を記す住所表記も少数だが存在する。

「町」と「大字」により市区町村下の区分をカバーでき、また「小字」が廃止されたり、住所の表記に用いられなくなったりしてきた経過から、全国的な市区町村下の基礎的な区分として「大字」と「町」が用いられることがある。(人口統計や新郵便番号制度など)

地方自治法では第260条に「町若しくは字[注釈 2]」の設置・廃止・区域変更・名称変更について規定されており、市町村議会の議決を経て、市町村長告示することによりこれらの行政処分の効力が生ずる。また、住居表示に関する法律第5条の2では、上記地方自治法第260条第1項の「町若しくは字の区域の新設若しくは廃止又は町若しくは字の区域若しくはその名称の変更」を、「町又は字の区域の新設等」と定義する。
近世の町・字
近世の町

近世の「町」が置かれたのは、一部の都市域などに限られており、今でいう町よりもごく小さい区画で構成されていた。城下町では武士や商工業を営む町人が同一都市で場所を分けて居住した[1]。城下町において、町人町は「町」、武家町は「丁」であると厳然と区別する仙台城下や[2]、領主のいる城周辺の上級武士の居住地には町名が設定されず、明治になり町名を設定され、またその際に名称として「町」ではなく「丁」を用いる和歌山城のような例も見られる[3]。また、城下町のほか、宿場町門前町港町などに町を置くことが認められていた[1]
近世の村

近世で「町」が置かれたのは一部に限られ、大部分は「村」に属した。豊臣秀吉は「太閤検地」を行い、里・保・郷・村・惣村などの末端区域を検地により境界を定めてすべて「村」とする「村切り」を行った[4]江戸幕府も、慶長寛永正保元禄天保の計5回、村々の石高を大名に調べさせる検地を行った[5]寛文4年(1664年)に江戸幕府が諸大名や公家・寺院などに領地を安堵する朱印状と領知目録を記した「寛文印知」を発給した。「寛文印知」に用いられる国郡名や村名は、正保期の検地成果である「正保国絵図」「正保郷帳」によるものと言われ、この「寛文印知」により全国的に近世の村が定まったと言える[5]
近世の字

近世の「字」は、『地方凡例録』によれば、村の中にある田畑・山林などの小さな地所の名前である「小名」を字(あざな)といい、帳面証文等には字(あざ)と記されるとしている[注釈 3]

なお、「小名」(こな)には2つの意味があり、一つは村の中の小集落を指すものであり、もう一つは、検地帳に記載された耕地名の系統の小地名をいうものであり、後者には山字なども含まれる[6]

歴史的にみると、10世紀に入るとそれまでの条里呼称と併用される形で、現在の小字に相当する地名が使用され始め、次第に小字表記が主流となり、太閤検地以後、「村?字」の表示が標準となった[7]
明治の町・字(市制・町村制以前)

明治になり、村の数は、江戸期の天保5年(1834年)の63,496から明治5年(1872年)には、78,200と大きく増え、町と合わせた町村数は82,778となった。これは、幕藩体制で各村に枝村とされた村が、明治維新の変革期にから解放され、枝村が分村したことによる増加であるといえる[8]
地租改正事業

明治政府は、明治4年(1871年)に「戸籍法」を定め、明治5年(1872年)にいわゆる「壬申戸籍」の編製を行った。さらに土地の所有者に地券(壬申地券)の発行が行われ、それぞれの所有地に番号(地番)が付与された[9]

「戸籍法」による地番の付与はなかなか進まなかったことから、政府は明治6年(1873年)7月に「地租改正」の条例を布告した[10]。具体的には、「各村の字ごとに番号をつけ、地番(地所番号)は、官有地・民有地と地種に関係なく、一村の通し番号とすること」として、小地名である「字」ごとに検地を行い、土地台帳と「地租改正地引絵図」(切絵図・地籍図)の作成を命じた[10]

地租改正に伴い全国的に実施された地租改正事業(改租事業)は、明治6年(1873年)から14年(1881年)頃にかけて[11]町および村単位に行われた。なお、地租改正の前後で、町村数は明治5年(1872年)の82,778から明治21年(1888年)の71,497に減少している[12]
字の整理

この地租改正事業においては、従前の字(耕地につけられた名称としての字)を基にしながらも、調査の都合の良いように小さなものをいくつかまとめたり、大きな字を分割したり適切な規模に再編成を行った[12]

そのため、地域によっては極めて丹念に一つ一つの小字を拾っていった村もあるが、地域差はあるものの、この地租改正において、複数の字をまとめて新しい名前の字をつけることにより、それまでの字名が多く失われたとされる[13]

これについて、地租改正事業に係る福島県の指示書である『実地丈量野取図心得』に、「一村中字名多数アリテ取調方不便ナルトキハ、成丈字数を減スヘシ」と記されており、実際他県に比べると字数が少ない[14]。一方で、茨城県では近世からの小字があまり統廃合されずに残された[注釈 4]

また、先述の『実地丈量野取図心得』には、「字ノ決定ノ上ハ、一字限リ字ノ番号ヲ附スヘシ」とあるが、現在の東京都日野市の一部、町田市の一部には、番号を用いた「字拾弐号」や、「字六号・宮ノ下」などの番号を用いた字名があったことが指摘されている[15]


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