男闘呼組
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この項目では、ロック・バンドについて説明しています。同名のアルバムについては「男闘呼組 (アルバム)」をご覧ください。

男闘呼組
別名OTOKOGUMI
出身地 日本
ジャンルロックンロール[1]
活動期間

1985年 - 1993年

2022年7月 - 2023年8月[2]

レーベルRCA/BMGビクター(現・ソニー・ミュージックレーベルズ)(1988年 - 1993年)
事務所ジャニーズ事務所(1985年 - 1993年)
共同作業者

小竹正人

田中厚

平山牧伸

蛎崎広柾

小関純匡

江口信夫

公式サイトhttps://otokogumi.tokyo/

メンバー

成田昭次ボーカルギター

高橋和也(ボーカル・ベース

岡本健一(ボーカル・ギター)

前田耕陽(ボーカル・キーボード

男闘呼組(おとこぐみ)は、1988年ジャニーズ事務所からデビューした4人編成のロックバンド男性アイドルグループ。メンバーは、成田昭次高橋和也岡本健一前田耕陽の4人。1993年6月30日付で活動休止。2022年7月16日、およそ29年ぶりに2023年8月までの期間限定での活動再開を発表[3][2]。2023年8月26日の日比谷野外音楽堂のライブをもって解散した[4]

現在、4人全員がジャニーズ事務所に所属していない。最後までジャニーズ事務所に残っていた岡本健一は2021年10月31日をもって専属契約を終了(退所)し、同年11月1日から2023年12月5日までエージェント契約を締結していた。
メンバー

名前プロフィール担当楽器
成田昭次
(なりた しょうじ) (1968-08-01) 1968年8月1日(55歳)、A型愛知県名古屋市熱田区出身ヴォーカル、リードギター
高橋和也
(たかはし かずや) (1969-05-20) 1969年5月20日(54歳)、O型東京都世田谷区出身ヴォーカル、ベース
岡本健一
(おかもと けんいち) (1969-05-21) 1969年5月21日(54歳)、O型、東京都新宿区下落合出身ヴォーカル、リズムギター(結成当初はサイドギターと名乗っていた)
前田耕陽 (リーダー)
(まえだ こうよう) (1968-08-16) 1968年8月16日(55歳)、A型、東京都八王子市出身ヴォーカル、キーボード (以前はドラムス)

初期参加メンバープロフィール担当楽器備考
守屋二郎
(もりや じろう) (1967-01-25) 1967年1月25日(57歳)、東京都出身ベース結成時に参加。すぐに脱退。
土田一徳
(つちだ かずのり) (1969-06-28) 1969年6月28日(54歳)、北海道川上郡弟子屈町出身キーボード守屋と入れ替わりで参加。すぐに脱退。
遠藤直人
(えんどう なおと) (1969-04-20) 1969年4月20日(55歳)、東京都足立区出身結成時から参加していたが、「やはりダンスがしたい」とジャニー喜多川社長に頼み脱退。

守屋、土田、遠藤が抜けて、一時は成田・高橋・岡本の3人だけで活動していたが、すぐに「東京男組」時代から時折サポート的に参加してきた前田が正式加入した。
バンドサポートメンバー

小関純匡
(こせき すみただ。初代ドラマー。後に「ENDLICHERI☆ENDLICHERI」のバックミュージシャンに。現在は高橋、前田と「Midnight Angel」として活動)

江口信夫 (レコーディングに参加。松原秀樹らと共に「Vibes」のメンバーとしても活躍。)

山木秀夫 (レコーディングに参加[5]

平山牧伸(ニ代目ドラマー。2009年夏ごろからはTHE TRIPLE Xのメンバーとしても活動している。1990年のツアー『LIVE ANGEL』[6]?活動休止までと、ライブ『男闘呼組 1988』の大阪、名古屋公演に参加[7]。男闘呼組の活動休止後は成田とバンド『INORGANIC』を結成し活動。また、高橋のバンド『MOUNTAIN MAN』のメンバー。愛称・ヒラぽん(命名は、高橋[6]))

田中厚 (編曲、キーボード担当。 但しコンサートでのメンバー紹介の際には、バンド内にキーボードが2人も居るという矛盾点を不自然に思わせないよう、敢えて“ピアノ”と紹介されていた。当時は一つのパートを複数メンバーが担当するというのは異常視されていた)

青山英樹(三代目ドラマー。ライブ『男闘呼組 1988』の東京公演、『男闘呼組 THE LAST LIVE』『男闘呼組 THE LAST FOREVER』にNAGAIと交互参加。)

デビン木下(二代目キーボード担当。ライブ『男闘呼組 1988』[8]、再結成後の全ての公演に参加。)

TOSHI NAGAI(再始動後のサポートドラマー。『男闘呼組 THE LAST LIVE』、『男闘呼組 THE LAST FOREVER』に青山と交互参加[9][10]。『PEACEFUL PARK Charity for Happy Inclusion 2023』[11]、『男闘呼組 2023 THE LAST LIVE -ENCORE-』に参加[12]。)

礒野凌太郎(再始動後のサポートドラマー。ライブ『男闘呼組 THE LAST LIVE』の福岡、熊本公演に参加[13][14]

来歴
グループの成り立ち及びデビュー前まで

1984年12月末、雑誌『マイアイドル』(1985年3月号分)の撮影に、成田昭次高橋一也岡本健一の3名が初めて揃って「ジャニーズJr.」として参加。この3月号の誌上で、ジャニーズJr.の中から更に数名を集めてバンドグループを結成するという企画が発表された。

1985年になり、この3名に対して「東京」というグループ名をジャニー喜多川社長が命名。[15]新たに遠藤直人と守屋二郎が加わり、5人で出演した明治製菓のチョコレート「アーモンドゴールド」のCMが、同年2月からオンエア開始(CMソングは彼らの初オリジナル曲「誠 ほれたぜ」)。その後「東京男組」と名乗るようになり、補佐メンバーとして前田耕陽が参加。同年3月、サポートメンバーの前田も含めた6名でグループ名を正式に「男闘呼組」へと改名(グループ名の名付け親は、ジャニーズ事務所社長のジャニー喜多川から、「You、今度うちからロックバンドを出そうと思うんだけど、名前考えてくれない?」と打診された事務所の先輩、中村繁之)。 しかし同月、守屋二郎が「大学受験の為」との名目で脱退。そして、ジャニー喜多川社長にスカウトされて事務所に入った土田一徳が、守屋との入れ替わりで加入しキーボードを担当。成田・高橋・岡本・遠藤・土田の5人で、同年4月3日からはテレビ朝日欽ちゃんのどこまでやるの!』にも出演開始。しかしその後、土田がメンバーから外される。以後、土田は俳優活動に専念。同年4月末、成田・高橋・岡本・遠藤に、前田耕陽を加えた計5名で「アーモンドゴールド」の新バージョンCMの撮影をする(放映開始は同年9月から)。


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