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男女ノ川 登三
男女ノ川登三の版画
基礎情報
四股名男女ノ川 登三
本名坂田 供次郎
愛称動く仁王様
昭和の雷電
角界四天王
五大力士
三鷹の三奇人
生年月日1903年9月17日
没年月日 (1971-01-20) 1971年1月20日(67歳没)
出身茨城県筑波郡菅間村磯部
(現・茨城県つくば市磯部)
身長193cm [1]
体重154kg [1]
BMI41.34
所属部屋高砂部屋→佐渡ヶ嶽部屋→高砂部屋→佐渡ヶ嶽部屋
得意技左四つ、割り出し、小手投げ
成績
現在の番付引退
最高位第34代横綱
生涯戦歴294勝155敗1分34休(45場所)
幕内戦歴247勝136敗1分33休(35場所)
優勝幕内最高優勝2回
三段目優勝1回
データ
初土俵1924年1月場所
入幕1928年1月場所
引退1942年1月場所
引退後私立探偵業
土建業
金融業
保険外交員
他の活動衆議院議員選出馬
市会議員選出馬
備考
金星2個(常ノ花寛市・玉錦三右衛門)
2013年8月4日現在■テンプレート ■プロジェクト 相撲
男女ノ川 登三(みなのがわ とうぞう、1903年9月17日 - 1971年1月20日)は、茨城県筑波郡菅間村(現在のつくば市磯部)出身で佐渡ヶ嶽部屋(入門時は高砂部屋)に所属した大相撲力士。第34代横綱。本名は坂田 供次郎(さかた ともじろう(きょうじろう))。 1903年9月17日に茨城県筑波郡菅間村(現在のつくば市磯部)で農家を営む一家に三男として生まれる。元々は屋根の修理屋で働いていたが、ある時修理中の屋根を踏み抜いてしまい、その力の強さに驚いた周囲の勧めで地元の相撲大会に出場するといきなり優勝してしまった。そのまま筑波郡大会・茨城県大会でも優勝し、自信を持って力士を志すようになった。そんなある日、偶然茨城県へ巡業に来ていた阿久津川高一郎を訪ねて入門を志願するものの、最初は厳しい稽古の話に終始したため諦めて戻るが、力士を目指す気持ちが全く揺るがなかったために4度訪問して、ようやく入門を許可された。 当初は富士ヶ根部屋に入門する予定だったが、1923年9月1日の関東大震災によって部屋が焼失したため、同じ一門の本家である高砂部屋に入門した。四股名は出身地である茨城県筑波郡と、百人一首でもお馴染みである「つくばねの みねよりおつる みなのがわ‥」から男女ノ川 供次郎とした。 1924年1月場所で初土俵を踏むと、負け越し知らずで1927年1月場所には新十両昇進、1928年1月場所で新入幕を果たした。1929年5月場所には「朝潮 供次郎」と改名した[注 1]。当時、朝潮と同じく体格の良い出羽ヶ嶽文治郎や、ともに「将来の大関・横綱」として並び称された武藏山武との取り組みは非常に人気があり、このためだけに両国国技館が18年ぶりに満員札止めになったこともあった(1930年1月場所千秋楽)。さらに、武藏山武との取り組みは松内則三によって実況中継され、大変な人気となった。 優勝同点も数回記録する順調な出世だったが、大関を目前とした1931年5月場所の直前に右膝関節炎を患い、無念の休場となる。1932年1月6日には天竜三郎を首謀とした春秋園事件が勃発し、朝潮も日本相撲協会を一時脱退した。協会を脱退したことに激怒した高砂は「朝潮」の名を剥奪して四股名は男女ノ川に戻され、所属部屋も佐渡ヶ嶽部屋へ転属となった[2]。
来歴
誕生?初土俵、入幕
春秋園事件?横綱へ