男はつらいよ
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「寅さん」はこの項目へ転送されています。小惑星については「寅さん (小惑星)」を、寅さんが愛称のプロゴルファーについては「中村寅吉」を、寅さんが愛称の政治家については「高沢寅男」をご覧ください。

この項目では、「男はつらいよ」シリーズ全般について説明しています。

映画第1作目については「男はつらいよ (映画)」をご覧ください。

各作品の解説については「#映画シリーズ一覧」をご覧ください。

柴又駅前にたつ「フーテンの寅」こと車寅次郎の銅像

『男はつらいよ』(おとこはつらいよ)は、渥美清主演、山田洋次原作・監督(一部作品除く)のテレビドラマおよび映画シリーズである。主人公の愛称から「寅さん」(とらさん)シリーズとも称される。
概要

テキ屋稼業を生業とする「フーテンの寅」こと車寅次郎が、何かの拍子に故郷の柴又に戻ってきては、何かと大騒動を起こす人情喜劇で、毎回旅先で出会った「マドンナ」に惚れつつも失恋するか身を引くかして、成就しない。寅次郎の恋愛模様を日本各地の美しい風景を背景に描く。

フジテレビプロデューサー小林俊一が、渥美清主演の新しいテレビドラマの企画を検討していた際に、渥美清に相談。渥美が、脚本家としても活動していた新人監督の山田洋次を推薦。旅館で執筆中の山田を小林と共に訪ねた渥美が、少年時代に憧れていたテキ屋の話や、自身の青春時代の話を披露、その時の雑談を元に、テレビドラマ「男はつらいよ」の物語が誕生した。

1960年代のドラマの主人公は、正統派の2枚目がほとんどで、「テキ屋が主役」という当時としては、斬新な設定のドラマの成功後、落語の長屋物からの影響、東映の「ヤクザ映画」のパロディとして企画されたという推論[1][2]、松竹映画に出演していた安藤昇が面識のある山田に「ヤクザ者が一般社会に入ってくることから巻き起こる物語」の案を話したエピソード[3][4]、など、様々な面からの影響が唱えられている。

フジテレビが制作・放送したテレビドラマは、1968年(昭和43年)- 1969年(昭和44年)に、放送されたが、柴又では、撮影が行われていない。当初、全く人気がなかったが、徐々に視聴率が上がり、最終回で、ハブ酒を作ってひと儲けしようとした寅次郎が、奄美大島で、ハブに咬まれて毒が回り死ぬ、という結末を迎えると、視聴者から抗議が殺到。映画化につながった[5]

映画シリーズは、山田洋次が全作の原作・脚本を担当。松竹によって1969年8月27日に第1作が公開され、1995年(平成7年)までに渥美が参加した48作が製作された。1997年(平成9年)には、特別篇、2019年(令和元年)には、映画公開50周年を記念して、23年ぶりに新作として、50作目が公開された。

当時の松竹社内では、映画化に反対の声が多く、期待されていなかったので、シリーズ化も想定されていなかった。2作で終わる予定で[6]、第1作の観客動員数は54万3000人とまずまずの結果となり、早々に第2作が再作開始。第3作は森崎東が、第4作を小林俊一が監督を行い、山田はこれらはもういいと思い脚本のみ手掛けた[7]。第5作は山田が再び監督しシリーズを完結させる予定であったが、それまでトントンの線で横ばい状態であった観客動員が一挙に5割増しとなり(それでもシリーズ平均の観客動員165万の半分にも及ばない72万人という小ヒットである)、これを受けてシリーズ継続となった。そのため、第5作は、続編製作の保証がない状態で作られた第1作、山田が当初2部作構想としていた第2作とともに、ある種の完結感を持ってしめくくられている。

以降、尻上がりで全作品がヒット、特に第8作は前作比6割増の爆発的飛躍で、森川の死による打ち切り意見を吹き飛ばすとともに、以降は100?200万台の動員を見込める松竹のドル箱シリーズとなった[注 1]。30作を超えた時点で世界最長の映画シリーズ(作品数)としてギネスブック国際版にも認定された(年数では『007』シリーズの方が長い)。山田は全50作完結を構想し、第49作『寅次郎花へんろ』準備中に渥美の死去により、1995年(平成7年)に公開された第48作『男はつらいよ 寅次郎紅の花』をもって終了(打ち切り)になった。その後、ファンからのラブコールが多かったとのことで、『男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花』を再編集し、新撮影分を加えた『男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花 特別篇』が1997年(平成9年)- 1998年(平成10年)に公開された。

1972年(昭和47年) - 1985年(昭和60年)の14年間はきっちりお盆と年末年始の年2回公開が守られており、多くの人が帰省休みを取るこの時期を彩る日本の風物詩とまでいわれた。なお、通常の「正月映画」が12月3週目あたりから公開されるのに対し、同シリーズは年末ぎりぎりの公開として初冬の風景をおりこんでいる。

1981?1985年は曜日にかかわりなく12月28日公開に固定されていたぐらいだが、後期はやや早まってクリスマス前後に公開されるようになった。また、前述の冬公開から「寅さん」は冬の季語にもなっている。1986年と1988年は山田がそれぞれ『キネマの天地』『ダウンタウン・ヒーローズ』に取り組む都合でお盆はお休み、これを挟んだ1987年と1989年はお盆・正月製作が守られたものの、渥美の体力低下もあって1990年以降は正式に正月のみの年1本製作へと変更された。前後して、恒例であった冒頭の夢の場面も次第になくなっていく。

渥美が撮影に参加した映画シリーズ48作の配給収入は464億3000万円[8]、観客動員数は7957万3000人[8] を記録。ビデオソフトは1996年7月末までにセル用とレンタル用の合計で85万本が流通している[9]。その後、ほぼすべての配信プラットフォームで全作品が視聴可能となっている。

1969年(昭和44年)の映画第1作公開から50周年に当たる2019年(令和元年)12月27日には、旧作の名場面に新撮部分を加えた第50作『男はつらいよ お帰り 寅さん』が公開[10][11][12]


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