申維翰
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『海游録』(かいゆうろく)は1719年の第9回朝鮮通信使一行の製述官[* 1]申維翰が著した紀行文[1]。朝鮮通信使の道中日記および、それをベースとして日本の風土・風俗などについて整理した「日本聞見雑録」から構成される[2]。『海游録』とは「海上の道を通しての紀行」という意味である[3]

1719年の朝鮮通信使による記録は、以下の4書が伝わっている。すなわち、正使・洪致中の『海槎日録』、製述官・申維翰の『海游録』、軍官・鄭後僑の『扶桑紀行』、軍官・金?の『扶桑録』で、中でも最も有名とされるものが『海游録』であり[4]、朝鮮通信使の研究においては必須文献とされている[5]

紀行文は漢文で日記調に書かれているが、随所に漢詩や風刺・諧謔、日朝間の文化的差異に関する考察・批評が挿入された闊達なもので[1]、朝鮮から中国や日本へ使節として渡った人々による紀行文の類は数多あるが、主要なものを集めた『海行ハ載』の中でも評価は高く、金台俊は著書『朝鮮漢文史学』(1931年)において、「朴趾源(燕巌)朝鮮燕行使)の『熱河日記』とともに朝鮮紀行文学の双璧」とした[6]。付篇の「日本聞見雑録」も「18世紀初頭の日本社会を網羅した観察記録」という評価を得ている[7]

本項目では著者の申維翰についても述べる。
構成

全編を通して漢文で書かれており、朝鮮通信使のメンバーに選ばれるところから、江戸城における将軍徳川吉宗謁見、復路漢城着までの日記がメインである。ただし単なる観光本でもなければ、外交辞令を並べただけの詩集でもなく、日本の国情把握という点も企図したものとされている[8]。道中は大都市だけでなく、行く先々の宿所に文人らが押しかけ漢詩の唱酬をしたり、筆談で朝鮮のことを聞かれたりと多忙であった[9]。江戸城では席が遠くて吉宗はよく見えなかったとした上で、おおよそのところとして「精悍で痩勁、坐貌は秀でて高く云々」と述べている[10]。結局道中は往復含め1719年4月11日から1720年1月24日というスケジュールであった[11]

『海游録』本体は朝鮮通信使のルートにそって順に記述されており、日付と地名を挙げれば以下のようになる[11]。日本の地名は当時のものを表示してある。

到着出発地名
-1719年4月11日漢城(発)
6月13日6月20日釜山(発)
6月20日[12]7月19日対馬
7月19日8月1日壱岐島風本浦
8月1日8月10日藍島
8月10日8月18日地島
8月18日8月24日赤間関
8月24日8月25日三田尻西津
8月25日8月26日竈関
8月27日8月28日鎌苅
8月28日8月29日韜浦
9月1日9月2日牛窓
9月2日9月3日室津
9月3日9月4日兵庫
9月4日9月10日浪華江河口、大坂
9月10日9月11日平方
9月11日9月12日京都
9月12日9月13日大津
9月13日9月14日守山
9月14日9月15日佐和
9月15日9月16日大垣
9月16日9月17日名護屋
9月17日9月18日岡崎
9月18日9月19日吉田
9月19日9月20日浜松
9月20日9月21日掛川
9月21日9月22日藤枝宿
9月22日9月23日駿河府中
9月23日9月24日三島
9月24日9月25日箱根越え小田原
9月25日9月26日藤沢
9月26日9月27日品川
9月27日10月15日江戸
10月15日10月16日品川
10月16日10月17日藤沢
10月17日10月18日小田原
10月18日10月19日三島
10月19日10月20日江尻
10月20日10月21日藤枝
10月21日10月22日掛川
10月22日10月23日浜松
10月23日10月24日吉田
10月24日10月25日岡崎
10月25日10月26日名護屋
10月26日10月27日大垣
10月27日10月28日佐和
10月28日10月29日守山
10月29日11月1日大津
11月1日11月3日京都
11月3日11月4日平方
11月4日11月15日浪華江河口、大坂
11月15日11月16日兵庫
11月16日11月17日室津
11月17日11月18日牛窓
11月18日11月19日韜浦
11月19日11月22日忠海村
11月22日11月27日鎌苅
11月27日11月28日津和港
11月28日12月3日竈関
12月3日12月4日笠戸村
12月4日12月7日向浦
12月7日12月8日元山
12月8日12月12日赤間関
12月12日12月13日藍島
12月13日12月20日壱岐島(風本浦)
12月21日1720年1月6日対馬
1月7日1月8日[13]釜山着
1月24日-漢城復命

「日本聞見雑録」は、地名、地形、暦、特産物や飲食物、制度、軍事、風俗や気質、歴史、教育など多岐にわたる紹介と考察による「文明批評」であり、「簡にして要をえた叙述」がなされる[1]日本酒についての記述もありの内容も諸白の意味も正確に理解し記述されている[14]


著者・申維翰

申維翰(しん ゆはん、しん いかん、1681年 - 1752年[* 2])は李氏朝鮮の文官[15]儒学者[1]は周伯、号は菁川、青水[2]

日本で言う江戸時代徳川吉宗の治世に朝鮮より派遣された第9回朝鮮通信使一行の製述官[* 1] として日本を訪れた。この時に得た知見を紀行文および日本観察記である『海游録』としてまとめた[1]
来歴

慶尚北道高霊の住人で、1681年、庶子(庶?)として生まれた[2]。基本的にこの時期の朝鮮では庶子は庶子であるという事実だけで科挙を受験することすらできない世の中であったが、一時的に緩和されることもあった。その受験が可能であった時期の1713年に科挙に及第し、詩文でも評価を得たものの、やはり庶子であるためか役人としては従四品である奉尚寺の僉正にとどまった(奉尚寺は国家の祭祀や諡号を司る役所。役職として僉正は正、副、に次ぐ)。転勤の話もあったが、年老いた母の病気を思い今の仕事が一段落したら実家へ帰ることを考えていた所、朝鮮通信使の製述官に推挙されたことを知った[16]。なお、父は朝鮮通信使を拝命したときにはすでに他界している[17]。今回の使節は徳川吉宗の8代将軍襲封のためのもので、その正使である洪致中が申維翰の文才を聞きつけての推薦であった[16]。申は朝鮮の伝統的な小中華思想から日本に対してあまり良い印象を持っておらず、色々と理由をつけて辞退しようとしたが、結局王の決済がおり、朝鮮通信使の製述官として日本に派遣されることとなった[16][* 3]。老母、弟、妹および妻子と別れを告げ[18]、対馬で対馬藩以酊庵の世話役らと合流し江戸まで行くことになった。以酊庵輪番の湛長老(月心性湛)や、対馬藩の真文(漢文)役であった雨森芳洲、松浦霞沼らとはよく交流が行われ、とくに雨森とは社交辞令的な付き合いだけではなく、自国の威信をかけて喧嘩ともいうべきやりとりも発生する、いうなら「好敵手」の間柄となった(京の大仏での饗応を巡る議論など。朝鮮通信使側は京の大仏は秀吉の発願した大仏で、そのような場所での饗応は不適当と主張したが、雨森は現在の大仏は徳川の世に再建されたもので、秀吉とは無関係であると主張した。)[19]。帰国後『海游録』を著した。1748年の朝鮮通信使が日本へ行った際、申維翰の消息を訪ねられることがしばしばあったらしい[15]。1752年死去。
人物

製述官に任命されるのであるから文才は当代一といってよく、正使の洪も「維翰文章, 古亦罕倫」とし、申維翰の類い稀な文才を評価している[20]。行く先々で詩の交換を求められ、即座に気の利いた返しをしなくてはならないという役目も問題なくこなせる能力がある。ただしこれは申に限らないが、製述官はいかんせん大人気で時間をかけて作詩することは難しく、求めにできる限り対応するために、詩文はすべてアドリブで対応するのではなく、前もって作っておいたレパートリーをアレンジして披露するというようなことも行っていたと考えられている[21]


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