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→字音
甲骨文字(こうこつもじ)は、古代中国の遺跡から出土する甲骨(亀の甲羅や牛の肩甲骨など)に刻みつけられた文字。特に、殷(商)時代後期(第22代殷王武丁以降)の占卜(亀卜)に使われた甲骨上の文字を指す。亀甲獣骨文字、甲骨文ともいう。2017年、ユネスコが主催する「世界の記憶」に登録された。 甲骨文字は漢字の現存最古の資料の一つであり、今日使われている漢字の初期の形態を伝えている。この時代の漢字資料には金文・陶文
概説
中国語の具体的な文章を記録したものとしても最古のものであり、中国語をシナ・チベット語族の中で最も早く記録された言語にさせている。一字一字の形こそ絵のような見た目をまだ保っているが、文字体系としては口頭言語を忠実に記録できるほど習熟した段階にあり、象形文字で表すことが困難な細かい意味を持つ単語や文法的機能語も仮借や形声文字を用いて表記することができる。[3][4]
甲骨の多くは殷のものだが、西周のものもある。 殷王朝は、甲骨(亀の甲羅や牛の肩甲骨など)に熱した金属棒を当てることでひびを入れ、そのひびの形で吉凶を判断するという占卜を行っていた。第22代殷王武丁(紀元前13世紀半ば頃)以降、甲骨に占卜の内容・結果を刻み込むようになった。これが殷墟より出土する甲骨文字である[注釈 2]。[5][6] 殷王朝がたおれた後、甲骨は地中に眠り人々の記憶から消えることになったが、清代になって発見され(#発見と収集の歴史参照)、以降今日まで10万?20万片近くの出土があると言われている。[7][6] 西周でも甲骨占卜と刻字が行われており、『詩経・大雅』の「綿」という詩では古公亶父が岐山に移住する際に亀卜を行ったことが歌われている[8]。特に、1970年代に殷墟から直線距離にして600km以上離れた周原で300片近くが出土している(#西周甲骨の発見参照)。 甲骨文字は、1899年秋、金石学者で国子監祭酒(文部長官相当)の王懿栄によって発見された。その甲骨は骨董商の范維卿から購入したもので、王懿栄はこれに狂喜し、以降数回にわたって范維卿や趙執斎から甲骨を1000片以上購入した。1900年に王懿栄は自殺したが、収集された甲骨の大部分は門弟の劉鶚に引き継がれた。劉鶚は収集と研究を続け、収集した甲骨約5000片あまりのうち1058片の拓本を掲載した図録『鉄雲蔵亀』を1903年に出版した。これによって甲骨文字が世に知られるようになった。[9][10][11][12] 范維卿は利益独占のためか当初甲骨の出土地を偽って伝えており、『鉄雲蔵亀』では甲骨の出土地は湯陰県であると記されている[9]。しかし羅振玉は調査の結果、実際の出土地は安陽市を流れる安陽川(?水 甲骨文字の発見の経緯として、王懿栄が持病のマラリアのための漢方薬として薬屋から購入した「竜骨」と呼ばれる骨片に文字が刻まれていたのを発見した、と説明されることがある。この逸話の初出は「汐翁」というペンネームの人物によって書かれた1931年の新聞記事で[注釈 3]、後に歴史語言研究所(後述)が編纂した年表に引用されたことで広まった。しかし、「汐翁」の記事には出典が示されておらず後にも先にも類似の記録が見当たらないことや、字の刻まれた甲骨がそのまま売られていたという話自体の疑わしさ等から、信頼できないものとされている。[17][18] また、王懿栄よりも先に王襄 甲骨の出土地が小屯村と判明したことで多くの収集家が訪れるようになった。1899年から1928年までの間に8万?10万片が私人によって発掘されたと言われている[22][23]。それ以上の遺跡の損壊や遺物の海外への流出を食い止めるため、また甲骨の発掘以外にも遺跡の全体的な調査を行うため、1928年10月に中央研究院歴史語言研究所が設立され、その下に董作賓らが率いる殷墟発掘調査チームが編成された。発掘調査は日中戦争によって中止となる1937年までに15回行われ、甲骨24918片が発見された。[24][25][26] 戦後に中華人民共和国が成立して以降は、1950年に設立された中国科学院考古研究所に発掘調査が引き継がれた。甲骨の大規模な発見としては、1973年の小屯南地甲骨、1991年の花園荘東地甲骨などがある。[27][28][29] 最も早く発見された西周甲骨は、1950年に四盤磨村
殷墟甲骨
西周甲骨
発見と収集の歴史
発見
発見に関する逸話
科学発掘
西周甲骨の発見
その後も西周甲骨は散発的に発見されている。大規模な発見としては2004年と2008年に岐山県周公廟遺跡のそれぞれH45地点とG2地点で発見されたものがあるが、現在のところ10数片しか公表されていない。[36][37] 甲骨文字は殷の最後の9人の王(武丁から帝辛まで)によっておよそ200年ほどにわたって使われていた。特定の甲骨文字がそのどの頃のものなのか特定する作業を断代と呼ぶ。 最も早く断代研究について明文化したのは王国維であり、1917年に『殷卜辞中先公先王考』と題する論文[38]において称謂を用いていくつかの甲骨文がどの王の時代に属するかを特定した。しかしこの頃は資料数が少なかったこともあり、王国維は先王の名が記された甲骨文に散発的に言及するのみであった。[39][40][41] 体系的な断代研究は、1928年に殷墟の科学的発掘調査が始まり資料数が増加したことで始まった。調査の指揮者の一人である董作賓は、1929年に発見された破砕の少ないほぼ完全な形を残していた亀甲に基づいて「貞人」を発見し、『大亀四版考釈』[42]にて貞人を含む8種類の基準から甲骨文の断代が可能であると提案した。その後『甲骨文断代研究例』[43]を著し、先に提案した(8種類から10種類に増やされた)基準の詳細とその実践を示した。董作賓は甲骨文を第1期(武丁)・第2期(祖庚・祖甲)・第3期(祖辛・康丁)・第4期(武乙・文武丁)・第5期(帝乙・帝辛)の5つのグループに分類した。[39][44][45][46] 1950年代に陳夢家は著書『殷虚卜辞綜述』[47]およびいくつかの論文で董作賓の分類を細分化した。結果的に、貞人組や書記集団は王世と正確に対応するわけではなく、同時代に複数のグループが共存したり複数の王にまたがるグループが存在することを示した[48][注釈 4]。陳夢家は貞人組に賓組・午組・師組・子組・出組・何組という名称を与えて分類を行った。そのうち、董作賓の分類では第4期(特に文武丁)とされていた午組・師組・子組が、実際には武丁の時代のものであることを示した。
甲骨文の断代
断代研究の歴史