.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}甲賀(こうが) 三郎(さぶろう)
誕生井ア 能為
1893年(明治26年)10月5日[1]
滋賀県蒲生郡日野町[1]
死没 (1945-02-14) 1945年2月14日(51歳没)
岡山県岡山市
墓地慈眼寺
職業小説家
言語日本語
国籍 日本
最終学歴東京帝国大学工科大学化学科卒業
活動期間1923年 - 1945年
ジャンル探偵小説、探偵戯曲
文学活動本格派[1]
代表作『支倉事件』
デビュー作『真珠塔の秘密』(1923年)
影響を与えたもの
大阪圭吉
小栗虫太郎
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甲賀 三郎(こうが さぶろう、1893年(明治26年)10月5日[1] - 1945年(昭和20年)2月14日)[1]は、太平洋戦争前・中の日本の推理作家、戯曲作家。本名は春田 能為(はるた よしため)[1]。 1893年(明治26年)10月5日、滋賀県蒲生郡日野町[1]に、小学校教師井ア為輔と母しえの次男「井ア能為」として生まれる。生家である井ア家は、代々甲賀郡水口藩加藤家の藩士で、祖父井ア湊は明治維新に活躍した。 能為は幼い頃から学業に優れ、特に算術が得意で、尋常科4年時には先生よりも達者だった。 1904年(明治37年)、大阪府の第一盈進高等小学校時代は『文芸倶楽部』等を愛読。5、6年生の時に投稿を思い立ち、短編二作を書いた。 1907年(明治40年)3月、高等科を卒業後、家庭の事情で給仕の職に就くが、その後に上京し、叔母の婚家で実業家の春田直哉宅に寄寓。この叔父の世話で進学できることとなる。京華中学校第二学年に入学。黒岩涙香やアーサー・コナン・ドイルの作品を愛読する。この中学時代に『萬朝報』などに寄稿し、何回か採用されたという。 1911年(明治44年)、第一高等学校に入学。菊池寛、久米正雄を愛読した。 1915年(大正4年)、東京帝国大学工科大学に入学。化学科で応用化学を学ぶ。 1918年(大正7年)、1月に、請われて寄寓先の叔父直哉の養子となり、その長女道子と結婚、「春田能為」と姓を改める。義父の春田直哉は15歳で上野彰義隊に参加した経歴を持つ三河吉田藩士であった[2]。7月に東京帝大を卒業。和歌山県和歌山市の由良染料株式会社に技師として就職した[1]。 1919年(大正8年)、染料会社を8月に辞め、東京神田三崎町に居を移す。翌1920年(大正9年)1月、農商務省「臨時窒素研究所」の技手となり、窒素肥料の研究に従事。10月に技師に任ぜられる。 この研究所の同僚に、やはり後に推理作家となる大下宇陀児がいたほか、あるところで江戸川乱歩とも顔見知りだった。三人とも作家になる以前のことである。のちに、戦前の探偵小説界では、彼らは「三羽鴉」と称された[1]。 公務員生活は肌に合わず、中学時代から親しんだ、コナン・ドイル作シャーロック・ホームズ物に倣って探偵小説を書き始める。1923年(大正12年)8月、研究所在職中に、『新青年』とともに探偵小説を一時多く掲載していた雑誌『新趣味』の懸賞小説に応募した『真珠塔の秘密』が一等入選。探偵小説家としてデビューする。応募のときに、郷土の伝説上の勇者である「甲賀三郎兼家」になぞらえて、筆名を「甲賀三郎」とした。江戸川乱歩が『二銭銅貨』でデビューしたのが『新青年』4月号であり、乱歩に遅れることわずか4ヶ月のデビューだった。
来歴