甲標的
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

薬理学用語の「抗標的」とは異なります。

この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。
出典検索?: "甲標的" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2015年7月)

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2015年7月)

甲標的
真珠湾に漂着した甲標的の残骸
基本情報
種別特殊潜航艇
運用者 大日本帝国海軍
建造数101隻
- 試作初号機 1隻
- 試作二号機 2隻
- 甲型 46隻
- 乙型 5隻
- 丙型 47隻
要目
排水量潜航時: 46 t[1]
長さ23.9 m[1]
幅1.8 m[1]
高さ3 m
推進器2ボルト蓄電池 192個
- 前に136個、後ろに56個
電動機1基 600 hp (447 kW)[1]1800 rpm
同軸反転スクリュー 2基
- 主推進スクリュー (直径1.35 m、右舷)
- 補助推進スクリュー (直径1.25 m、左舷) 英語版からの誤訳の可能性あり 前側推進器直径1.35m、右転;後側推進器直径1.25m、左転か
速力浮上時: 23ノット (43 km/h)
潜航時: 19ノット (35 km/h)[1]
航続距離2ノット (3.7 km/h) で100海里 (190 km)[1]
6ノット (11 km/h) で80海里 (150 km)
19ノット (35 km/h) で 18海里 (33 km)
潜航深度30 m (試験深度)[1]
乗員2名[1]
兵装45cm魚雷発射管 2門 (前装式)[1]
140kg自爆装置 1基
その他錘: 2670 kg (534kgの鉛棒 ×5) 英語版からの誤訳の可能性あり(5kg鉛延板 534本か)
特記なき事項は甲型の要目
テンプレートを表示
前方から見た甲標的甲型
「en:Submarine Force Library and Museum」(アメリカコネチカット州)所蔵。 後方から見た甲標的甲型
「en:Submarine Force Library and Museum」(アメリカコネチカット州)所蔵。 真珠湾攻撃の後、オアフ島に流れ着いた甲標的、1941年12月。解体調査の後組み立てられ、東條の葉巻の名で国債を売るのに利用された。 キスカ島の防衛のため配備された特殊潜航艇。戦闘に加わることなく、撤退作戦時に放棄されてアメリカ軍が鹵獲した。

甲標的(こうひょうてき)は、大日本帝国海軍(日本海軍)において最初に開発された特殊潜航艇である。兵装として魚雷2本を艦首に装備し、鉛蓄電池によって行動する小型の潜航艇であったが、後に発電用のディーゼルエンジンを装備し、ディーゼル・エレクトリック方式となった。開発当初は洋上襲撃を企図して設計されたが、後に潜水艦甲板に搭載し、水中から発進して港湾泊地内部に侵入し、艦船を攻撃するよう戦術が転換された。
歴史
構想段階

1931年昭和6年)11月、艦政本部第一部第二課では日本独自の兵器研究開発するためにさまざまなアイデアを検討した。当時、ワシントンロンドン条約により、列強各国海軍の戦力保有には厳しい上限が設けられていた。日本の仮想敵の一つであった米国海軍と比較し、主力艦の戦力差は大きく、仮に戦えば日本が敗北する恐れは非常に大きかった。さらにアメリカなどの列強との経済力生産力の格差による海軍戦力の制限を補い、有事の際に有利に事を進める必要があった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:58 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef