甲斐銚子塚古墳
[Wikipedia|▼Menu]

銚子塚古墳

墳丘全景(右に前方部、左奥に後円部)
所在地山梨県甲府市下曽根町
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度35分32秒 東経138度34分42秒 / 北緯35.59222度 東経138.57833度 / 35.59222; 138.57833 (甲斐銚子塚古墳)座標: 北緯35度35分32秒 東経138度34分42秒 / 北緯35.59222度 東経138.57833度 / 35.59222; 138.57833 (甲斐銚子塚古墳)
形状前方後円墳
規模墳丘長169m
埋葬施設竪穴式石室
(内部に割竹形木棺
出土品鏡5面、円筒埴輪、組合式木製品ほか
築造時期4世紀後半
史跡国の史跡「銚子塚古墳 附 丸山塚古墳」
特記事項山梨県第1位の規模
地図.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}甲斐銚子塚
古墳甲府
テンプレートを表示

甲斐銚子塚古墳(かい ちょうしづか こふん)は、山梨県甲府市下曽根町にある前方後円墳。国の史跡に指定されている(指定名称は「銚子塚古墳附丸山塚古墳」)。

山梨県内では最大規模の古墳で、4世紀後半の築造と推定され、古墳時代前期では東日本最大級の規模になる[1]。「銚子塚」とは江戸時代地誌類において前方後円墳に見られる通称で、側面が銚子(柄の長い酒器)に見えることからの名称と考えられている。山梨県において「銚子塚」と呼称される古墳は笛吹市にもあるが、そちらは「岡銚子塚古墳」と称して区別される。

なお、本項では甲斐銚子塚古墳に隣接する丸山塚古墳についても記載する。
立地と地理的・歴史的景観甲斐銚子塚古墳・丸山塚古墳のステレオ空中写真(1975年) 国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成後円墳上部より前方部を望む

所在する甲府市下曽根町は甲府盆地の南東縁に位置する。笛吹川の左岸、盆地南部に広がる曽根丘陵北端に立地する。一帯は大型古墳が集中的に分布する地域で、甲斐銚子塚古墳は盛土と推定される標高340メートルの東山台地に展開する。甲斐銚子塚古墳は標高260メートル付近に位置する。下曽根・上向山地区にかけて大丸山古墳、丸子塚古墳、かんかん塚古墳とともに東山古墳群を構成する。南西の米倉山にも古墳群がある。
古墳の発見と調査

江戸時代後期の文化11年(1814年)に編纂された甲斐国地誌甲斐国志』では甲斐銚子塚古墳に関する記述があり、この時代から「銚子塚」と呼称されていたことが確認される。

近代には伊勢講の信仰対象として山頂に石祠石灯籠などがり、「伊勢塚」と称された。なお、現在では伊勢講に関する施設は史跡整備により別の地点に移設されている。

1925年大正14年)に刊行された『史跡名勝天然記念物調査報告書』[2]においては石室を有した大型の前方後円墳で、環濠(周溝)、埴輪を伴う古墳であることが著述されている。

1928年昭和3年)3月17日、伊勢講の帳屋(あくしゃ)建設の際に竪穴式石室と大量の副葬品が発見された。この時の調査は文部省嘱託の上田三平により同年9月1日刊に『史学雑誌』に掲載された論文「銚子塚を通して観たる上代文化の一考察」において報告された[3]。上田は同論文において甲斐銚子塚古墳の規模や石室の形態、副葬品を関東・畿内の古墳と比較し、甲斐銚子塚古墳が畿内との結び付きの強い古墳であることを指摘した[3]

戦後には1966年(昭和41年)には明治大学考古学研究室・大塚初重の主導による測量が行われ、主軸長は169メートル、前方部幅は69メートルで高さ8.5メートル。後円部径は92メートルで高さ15メートルと推定された。1928年の出土品の大半は東京国立博物館に収蔵された。

1985年(昭和60年)には山梨県教育委員会による発掘調査が行われた。1975年(昭和50年)には『中道町史』において調査結果がまとめられた。1983年(昭和58年)から整備保存工事が施され、周辺は曽根丘陵公園として整備され、1982年(昭和57年)には甲斐銚子塚古墳をはじめ山梨県内から出土した考古資料を保管・展示する山梨県立考古博物館が開館した。1986年(昭和61年)には甲斐銚子塚古墳をはじめ古墳時代前期を扱った第4回特別展「古代甲斐国と畿内王権」が開催されている。

1998年平成10年)からは後円部周辺地域の公有地化が進められ、2004年(平成16年)には完了する[4]。あわせて後円部の発掘調査も実施され、2001年(平成13年)には後円部西側で墳端が確認された。2004年には後円部北側で後述する「突出部」と祭祀に関わる木製品が出土した[4]

東日本の前期古墳において「突出部」の存在や木製品の出土は類例のないことから、第2次調査による発見で銚子塚古墳は再び注目された。2006年には山梨県立考古博物館で第24回企画展『甲府盆地から見たヤマト』が開催され、出土した木製品などが展示された。また、翌2007年には『発掘された日本列島2007?新発見考古速報展?』においてもこれらの木製品が出展されている。
発掘調査と検出遺構・出土遺物
石室

1928年の調査で甲斐銚子塚古墳の石室は東西の主軸と後円部の交差する地点に位置し、竪穴式の割石小口積みで、あることが指摘されている。底は粘土床で、割竹形木棺の形跡が認められた。

石室は内法長6.5メートル、幅0.9メートル、高さ1.2メートル。石室内部中央に朱が厚く堆積したことが認められ、この付近から様々な副葬品が出土している。後円部で葺石を葺いた三段築成で、前方部では葺石のない二段築成である。周濠は一重で15?20メートルである。
出土遺物三角縁神獣車馬鏡東京国立博物館展示。

1985年の発掘調査において副葬品としては鏡5が出土した。甲斐銚子塚古墳の鏡は岡山県岡山市備前車塚古墳群馬県三本木古墳、福岡県藤崎遺跡の出土鏡と同笵(どうはん)関係にある三角縁神人車馬画像鏡1、内行花文鏡1、?龍鏡(だりゅうきょう)1、同じ鋳型で造られた?製鏡(ほうせいかがみ)の三角縁獣文帯三神三獣鏡(三角縁神獣鏡)1、半円方格帯環状乳神獣鏡である。

内行花文鏡は舶載品で、「長宜子孫」「壽如金石」の吉祥句が配置される[5]は破損しており、意図的な破壊であるとも考えられている[5]?龍鏡は画文帯神獣鏡・環状乳神獣鏡などを基に独自の構図・表現を加えた倭鏡で、甲斐銚子塚古墳から出土した?龍鏡は外区に鳥文・菱雲文を巡らせ、内区の構造は簡略化されている[6]。なお、笛吹市の岡銚子塚古墳では甲斐銚子塚古墳出土品よりも鏡径の大きい?龍鏡が出土している[6]

ほか、水晶製勾玉4、碧玉製管玉、車輪石6、鉄刀4、鉄剣3、鉄鏃片、短冊形鉄斧、腕輪形石製品1、石釧(いしくしろ)・貝釧、杵形木製品などが出土した。

車輪石はオオツタノハの貝輪を模した石製品で、甲斐銚子塚古墳出土のものは碧玉製。円形で環体の幅が小さく、が付着している。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:36 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef