甲斐姫
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甲斐姫
生誕
元亀3年(1572年[注 1]
武蔵国埼玉郡
死没没年不詳
死没地不詳
肩書き豊臣秀吉側室
成田氏長由良成繁の娘
親戚成田長親小山政種[2]

甲斐姫(かいひめ、元亀3年(1572年[注 1] - 没年不詳)は豊臣秀吉側室の一人、忍城城主・成田氏長の長女[1]天正18年(1590年)の小田原征伐の際、父・氏長が小田原城に詰めたため留守となった忍城を一族郎党と共に預かり、豊臣軍が城に侵攻した際には武勇を発揮して城を守りぬいたと伝えられている[1][3]
生涯
出自

忍城城主・成田氏長と、最初の正妻[注 2]上野国金山城城主・由良成繁の娘との間に生まれる[5][6]。外祖母となる妙印尼(由良成繁の妻)は、天正12年(1584年)に金山城が北条氏の軍勢に襲撃された際、71歳という高齢にも拘らず籠城戦を指揮した人物であり[7]、甲斐姫の母も武芸に秀でていたとされる[6]

天正元年(1573年)、成田氏と由良氏の関係悪化に伴い、母とは2歳の時に離別した[6]。その後は氏長継室となった太田資正の娘の下で育てられたが[6]、継母や巻姫や敦姫といった腹違いの妹たちとの仲は良好だったという[5]。19歳となった甲斐姫はその容姿から「東国無双の美人」と評されたが[5]、武芸や軍事に明るかったことから、「男子であれば、成田家を中興させて天下に名を成す人物になっていた」とも評された[5]

甲斐姫、巻姫、敦姫のほかに氏長には天正14年(1586年)に亡くなった嫡子と[2]下野国小山秀綱または小山政種に嫁いだ女子が存在したと考えられている[2]。この女子について、『重興小山系図』では「(政種の)母は成田下総守藤原氏長の女」、『関八州古戦録』では「(政種の)妻は氏長の娘」と記されているが[2]、『重興小山系図』の記述については年代的に考えて「妻」の誤伝だろうと指摘されている[2]
忍城の戦い「忍城の戦い」も参照忍城址にある水城公園。豊臣方との約1か月に渡る籠城戦の末に開城した

天正18年6月4日(1590年7月5日)、豊臣秀吉による小田原征伐の際、500余の兵と城下の民たち合わせて3,000人程度が籠もる忍城に石田三成率いる約2万3千人の豊臣秀吉軍が侵攻した[8][9]。忍城は湿地を活かして築城されている上に、城代・成田泰季が率いる籠城軍の士気は高く、城攻めは難航した[9]。この籠城戦の最中に城代の泰季は発熱を起こし、そのまま病死したが[10]、奥方と甲斐姫は泰季からの「大任を受けながら途中で死を迎えることは残念。万が一の時には成田長親を私の代わりに」との遺言を受けると一門や家臣を集め、泰季の嫡男・長親を総大将とすることを命じた[10]

成田勢の抵抗に対して三成は備中高松城と同様に水攻めの戦法を採用[8][9]。城の周囲に石田堤と呼ばれる長大な堤防を築き、水を引き入れて成田勢を無力化する作戦に出た[9]。周辺地域の地形的な問題もあり堤内の水位は芳しくなかったが[11]荒川利根川から水を引き入れたことで6月16日7月17日)には堤内は水で満ちた[8]。一方、忍城周辺は6月18日7月19日)頃から梅雨時の風雨に見舞われた[9]。この風雨により、同日夜半に2箇所で堤が決壊、濁流が石田勢を押し流し、270人近くにおよぶ溺死者を出した[8]。成田勢が夜陰に乗じて堤を破壊したためだとも言われる[9][注 3][注 4]

6月25日7月26日)、岩槻城鉢形城を攻略した浅野長政の軍勢が援軍として差し向けられると[16]6月27日7月28日[16]に長政が自ら陣頭に立ち大手口(.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度8分19.09秒 東経139度27分30.78秒 / 北緯36.1386361度 東経139.4585500度 / 36.1386361; 139.4585500 (大手口))から攻撃を仕掛けた[17]。浅野勢が本丸に迫る勢いを見せたため、報告を受けた城代の長親が出陣しようと試みたが[18]甲斐姫はこれを押し留め、自らが鎧兜を身に付け、成田家に伝わる名刀「浪切」を携え、200余騎を率いて出陣[18]。甲斐姫の到着より先に佐間口を守備していた正木利英が手兵を引き連れて応援に駆けつけていたこともあって浅野勢の侵入を阻止することに成功し、甲斐姫も多くの敵将を討ち取ったとされる[18]全ての座標を示した地図 - OSM
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7月5日8月4日[8]、豊臣側は石田・佐竹勢が下忍口(北緯36度8分3.33秒 東経139度27分15.96秒 / 北緯36.1342583度 東経139.4544333度 / 36.1342583; 139.4544333 (下忍口))から、浅野・長束勢は持田口(北緯36度8分7.2秒 東経139度26分53.65秒 / 北緯36.135333度 東経139.4482361度 / 36.135333; 139.4482361 (持田口))から、大谷宇都宮勢が佐間口(北緯36度8分2.69秒 東経139度27分42.36秒 / 北緯36.1340806度 東経139.4617667度 / 36.1340806; 139.4617667 (佐間口))から三方面同時に侵攻を開始し[8]、浅野長政、真田昌幸真田信繁父子らが布陣した持田口では両軍による激しい戦闘が行われた[19]。成田勢は真田の兵に出城を攻め落とされ[20]、浅野勢の攻勢の前に持田口の捨曲輪が攻め破られ多数の死傷者を出した[19]。成田勢は他方面でも豊臣側の軍勢と対峙しているため援軍を派遣することが出来ず[19]、本丸から甲斐姫が200余騎を率いて持田口に加勢した[19]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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