甲府城
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山梨県
稲荷櫓 (木造復元)
別名舞鶴城、一条小山城
城郭構造梯郭式平山城
天守構造なし
築城主徳川家康
豊臣秀勝
築城年1583年(天正11年)
主な城主浅野氏
徳川氏
柳沢氏
廃城年1873年明治6年)
遺構石垣
指定文化財国の史跡
再建造物土塀
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度39分55.04秒 東経138度34分16.82秒 / 北緯35.6652889度 東経138.5713389度 / 35.6652889; 138.5713389座標: 北緯35度39分55.04秒 東経138度34分16.82秒 / 北緯35.6652889度 東経138.5713389度 / 35.6652889; 138.5713389
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甲府城甲府城の古絵図  『楽只堂年禄』第173巻愛宕山より眺めた甲府城跡

甲府城(こうふじょう)は、山梨県甲府市にあった日本の城舞鶴城の雅号を持ち、国の史跡に指定されている[1][2]
概要

甲府盆地北部、現在の甲府市中心街の一条小山に築城された中世から近世にかけての平山城である。

甲斐国では戦国期から甲府が政治的中心地となり、躑躅ヶ崎館(武田氏居館)を中心とする武田城下町が造成されたが、武田氏滅亡後に甲斐を領した徳川氏や豊臣系大名が甲斐を支配し、甲府城を築城して新たに甲府城下町が整備された。豊臣政権では徳川家康を牽制する要所、江戸時代では将軍家に最も近い親藩(甲府藩)の城となった。天守台はあるが天守が建てられていたかは不明である。江戸時代には初期の幕府直轄領時代から甲府藩時代、享保年間に再び直轄領とされた甲府勤番時代を通じて統治の拠点となる。

明治時代、1873年の廃城処分となった以降にも甲府は政治的・経済的中心地として機能し、甲府城は県庁主導の殖産興業政策において建物などの破却が行われ、内堀が埋め立てられて官業施設化される。さらに中央線(JR東日本中央本線)の開通と甲府駅(甲府城清水曲輪跡にあたる)の開業により城跡は分断されたが、戦後には城跡の発掘調査や史跡の整備が進み、現在は、本丸・天守曲輪及び天守台・稲荷曲輪・鍛冶曲輪の石垣、堀の一部が残り、武田氏居館とともに甲府駅周辺の観光地となっている。

また、出土遺物のうち鯱瓦(甲府城跡出土金箔鯱瓦)と飾瓦(甲府城跡出土飾瓦)は県指定文化財。
歴史・沿革
武田氏滅亡後の甲斐情勢と甲府城

甲府城が築城された一条小山は甲斐国山梨郡板垣郷にあたり、平安時代後期には甲斐源氏の一族である甲斐一条氏が領し、一条忠頼の居館があったという。忠頼の死後、館は夫人がその菩提を弔うために開いた尼寺となり、鎌倉時代には時宗道場の一蓮寺となる。

戦国時代には守護武田氏・武田信虎期に甲府が開創され、躑躅ヶ崎館(武田氏居館、甲府市古府中町)を中心とする武田城下町が整備される。一条小山は武田城下町の南端に位置している。武田氏は信虎・晴信(信玄)期に戦国大名化し、信濃・駿河・西上野へと領国拡大を行い、甲府・躑躅ヶ崎館は勝頼期至るまで領国経営の中心であった。勝頼期には盆地西部の穴山郷に新府城韮崎市中田町中條)が築城され府中の移転が試みられたが、天正10年(1582年)3月に織田・徳川連合軍の侵攻による武田氏の滅亡で途上に終わった。

武田氏滅亡後の甲斐仕置において、甲斐一国と信濃諏訪郡は織田家臣の河尻秀隆が領し、秀隆は岩窪館(甲府市岩窪町)を本拠とした。同年6月に本能寺の変により秀隆は一揆勢に殺害され、無主状態となった甲斐・武田遺領を巡る天正壬午の乱が発生する。天正壬午の乱において甲斐は三河国の徳川家康と相模国の後北条氏が争い、家康は甲府城下の尊躰寺一条信龍屋敷に布陣して、やがて新府城へ移り北条氏と対峙した。同年には徳川・北条同盟が成立し、武田遺領のうち甲斐・駿河は徳川家康が領し、家康は五カ国を領し東国において台頭する。

家康は天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いを経て豊臣政権に臣従し、天正壬午の乱後に残された上野国の沼田領問題において豊臣政権と後北条氏との関係が緊張すると、後北条氏の領国と接する甲斐においても政治情勢が緊迫化する。なお、天正壬午の乱においては後北条氏は郡内領を制圧し、秩父往還沿いの浄居寺城(中牧城、山梨市牧丘町浄居寺)を本拠とする大村党が北条方に帰属する事態が発生した。家康は天正17年にはこの浄居寺城の大修築を命じている。

天正18年(1590年)の小田原合戦により後北条氏は滅亡し、家康は旧後北条領国の関東へ移封される。甲斐は豊臣大名に与えられ、豊臣大名時代には甲府城の築城が本格化している。
築城主・築城年代

家康は甲府・躑躅ヶ崎館を甲斐における支配的拠点としていたが、1583年(天正11年)には家臣の平岩親吉に命じて一条小山の縄張りを行い、甲府城の築城を企図したと言われる。

甲府城の築城主を徳川家康とする説は古くからあり、江戸後期に編纂された『甲斐国志』では築城主を家康・年代を天正13年(1585年)としている。昭和戦後期には1969年昭和44年)に『甲府城総合調査報告書』が築城主を家康・年代を天正11年としている。

築城主を家康・年代を天正10年・13年とする説の根拠となる史料には年未詳徳川家奉行人連署状写、享保年間の『甲斐国歴代譜』、「愛宕山宝蔵院」『甲斐国志』仏寺部があるが、いずれも家康による築城を確定する史料でなく、この時期に甲斐国内において大規模な動員がかけられた形跡もないことが指摘される[3]

天正11年築城説の根拠となる年未詳正月27日付平岩親吉宛書状において、家康は家臣の平岩に対して一条小山における築城の準備を命じており、「石垣積」の技術を持つ職人衆の派遣を行っている。石垣積は「穴太積」とも呼ばれる西国系の技術で、織田信長が天正4年(1576年)の安土城築城において本格的に使用し、豊臣秀吉に引き継がれたという。戦国期の甲斐や武田領国、家康の領した東国五カ国には存在せず、甲府城において初めて用いられている。現在の甲府城の石垣遺構は技術的な中断の形跡が無く同一の技術水準によるものであることが指摘され、豊臣大名時代の築造と考えられている。

これらの石垣積の導入時期や甲斐・家康を巡る政治情勢から、平山優は甲府城築城に関わる年未詳家康文書の年代比定は天正11年ではなく、小田原合戦・家康の関東転封をひかえた天正17年頃である可能性が指摘を指摘し[4]、家康は甲府城の築城を企図していたが実現されず、甲府城の築城は豊臣大名時代になされたと評価している[5]
豊臣大名・江戸時代の修築「柳沢吉保」肖像画 甲府市・一蓮寺所蔵

甲府城の築城は豊臣大名時代に本格化している。豊臣秀勝は天正18年7月に甲斐を拝領するが、翌天正19年2月には美濃へ転封されているため在国期間が短く、秀勝時代の甲府城築城に関する史料は天正18年8月3日付羽柴(豊臣)秀勝黒印状写のみが知られている。

秀勝の次に甲斐を拝領した加藤光泰時代には天正19年10月19日付加藤光泰黒印状や年未詳正月14日付加藤光泰書状などの史料が見られ、工に動員をかけ甲府城築城を行っており、城内の殿舎の建設も開始されている。光泰時代に甲府城の築城は本丸・天守曲輪・稲荷曲輪・館曲輪など中心部分が竣工されていたと考えられている[6]

次代の浅野長政幸長時代にも築城は継続されているが、このころには秀吉の朝鮮出兵が行われ、甲府城の築城は困難にさしかかっており、甲斐では農民の逃散も発生している。光泰・浅野氏時代には一条小山の一蓮寺をはじめ、寺社の移転も行われている。

江戸時代には甲府藩が設置される。宝永元年(1704年)には甲府藩主・徳川綱豊(家宣)が将軍・綱吉の後継者になると、綱吉の側用人であった柳沢吉保は甲斐・駿河領国に15万1200石余りの所領と甲府城を与えられる[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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