甲子
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干支
1
甲子2
乙丑3
丙寅4
丁卯5
戊辰6
己巳7
庚午8
辛未9
壬申10
癸酉
11
甲戌12
乙亥13
丙子14
丁丑15
戊寅16
己卯17
庚辰18
辛巳19
壬午20
癸未
21
甲申22
乙酉23
丙戌24
丁亥25
戊子26
己丑27
庚寅28
辛卯29
壬辰30
癸巳
31
甲午32
乙未33
丙申34
丁酉35
戊戌36
己亥37
庚子38
辛丑39
壬寅40
癸卯
41
甲辰42
乙巳43
丙午44
丁未45
戊申46
己酉47
庚戌48
辛亥49
壬子50
癸丑
51
甲寅52
乙卯53
丙辰54
丁巳55
戊午56
己未57
庚申58
辛酉59
壬戌60
癸亥
十干十二支

甲子(きのえね、こうし、かっし[1])は、干支の一つ。

干支の組み合わせの1番目で、前は癸亥、次は乙丑である。陰陽五行では十干は陽の十二支は陽ので、相生(水生木)である。
甲子年

西暦年を60で割って4が余る年が甲子となる。


王朝交代の革命年である辛酉年の4年後で、天命が改まり、徳を備えた人に天命が下される革令年、変乱の多い年とされ、「甲子革令」という。日本の平安時代以降、それを防ぐ目的で甲子年には改元が行われた。1024年の甲子改元以降で、明治時代(一世一元の詔により在位中の改元が廃止)より前に甲子改元が無かったのは永禄7年(1564年)のみである[2]

桓武天皇は同母兄弟の天智系の王子(大友皇子)を殺害して即位した天武系王統の断絶後に即位した父であり、天智系の光仁天皇から皇位を継承したことから、王統交代を強く意識し、革令の年である784年長岡京に遷都したともいわれている。

184年に中国後漢の末期に起こり、漢の解体を決定付けた黄巾の乱は「蒼天已死 黄天當立 歳在甲子 天下大吉(『後漢書』71巻 皇甫嵩朱逞傳 第61 皇甫嵩[3])」をスローガンに掲げた。

南北朝期1384年陸奥国で発見された温泉は、甲子年にちなんで甲子温泉と名付けられた。

元治元年(1864年)の甲子年にあやかり、伊東大蔵(大藏)は伊東甲子太郎に改名した。

大正13年(1924年)に兵庫県西宮市に作られた野球場は、この年の干支から「甲子園大運動場」(現 阪神甲子園球場)と命名された[4]

西宮市内の地名にもなっており、東京甲子社の社名の由来もこの年である。

1千年紀2千年紀3千年紀


4年

64年

124年

184年

244年

304年

364年

424年

484年

544年

604年

664年

724年

784年

844年

904年

964年


1024年

1084年

1144年

1204年

1264年

1324年

1384年

1444年

1504年

1564年

1624年

1684年

1744年

1804年

1864年

1924年

1984年


2044年

2104年

2164年

2224年

2284年

2344年

2404年

2464年

2524年

2584年

2644年

2704年

2764年

2824年

2884年

2944年


甲子月

西暦年の下1桁が3・8(十干が)の年の11月が甲子のとなる。ここでいう月は旧暦月や節月大雪から小寒の前日まで)を適用する場合もある。
甲子日

甲が木性、子が水性で相生(水生木)の関係にあり、干支の組合せの1番目であることから甲子日は吉日とされている。

子をと結び付かせ、鼠を大黒天の使者とみなして大黒天祭(甲子祭)が行われる。甲子待(かっしまち)と言って、子の刻まで起きて大豆黒豆・二股大根を供え、大黒天を祀る。

松浦静山の随筆集『甲子夜話』は1821年(文政6年)11月17日の甲子日に書き始めたことより命名された。
甲子日の暦注下段

凶会日旧暦3月の場合)

神吉日

大明日

甲子を含む人名

板見甲子夫(かねお)- 1924年生、教育者。

伊東甲子太郎(かしたろう)

桑原甲子雄(きねお)

瀧澤甲子彦(かしお)- 1924年生、フィギュアスケート選手。

長島甲子男(きねお)- 1924年生、プロ野球選手。

福田甲子雄(きねお)

増田甲子七(かねしち)

三浦甲子二(きねじ)- 1924年生、ジャーナリスト。

関連項目

還暦


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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