干支
1
甲子
干支の組み合わせの1番目で、前は癸亥、次は乙丑である。陰陽五行では十干の甲は陽の木、十二支の子は陽の水で、相生(水生木)である。
甲子年
西暦年を60で割って4が余る年が甲子年となる。
王朝交代の革命年である辛酉年の4年後で、天命が改まり、徳を備えた人に天命が下される革令年、変乱の多い年とされ、「甲子革令」という。日本の平安時代以降、それを防ぐ目的で甲子年には改元が行われた。1024年の甲子改元以降で、明治時代(一世一元の詔により在位中の改元が廃止)より前に甲子改元が無かったのは永禄7年(1564年)のみである[2]。
桓武天皇は同母兄弟の天智系の王子(大友皇子)を殺害して即位した天武系王統の断絶後に即位した父であり、天智系の光仁天皇から皇位を継承したことから、王統交代を強く意識し、革令の年である784年に長岡京に遷都したともいわれている。
184年に中国後漢の末期に起こり、漢の解体を決定付けた黄巾の乱は「蒼天已死 黄天當立 歳在甲子 天下大吉(『後漢書』71巻 皇甫嵩朱逞傳 第61 皇甫嵩伝[3])」をスローガンに掲げた。
南北朝期の1384年に陸奥国で発見された温泉は、甲子年にちなんで甲子温泉と名付けられた。
元治元年(1864年)の甲子年にあやかり、伊東大蔵(大藏)は伊東甲子太郎に改名した。
大正13年(1924年)に兵庫県西宮市に作られた野球場は、この年の干支から「甲子園大運動場」(現 阪神甲子園球場)と命名された[4]。