梅暮里谷峨の洒落本『甲子夜話』とは異なります。
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『甲子夜話』(かっしやわ)は、江戸時代後期に肥前国平戸藩第9代藩主の松浦清(号は静山)により書かれた随筆集。 書名の由来は、平戸藩主を退き隠居した後、この随筆が1821年12月11日(文政4年11月17日)の甲子の夜に書き起こされたものであることによる。その後静山が没する1841年(天保12年)まで20年間にわたり随時書き続けられ、正篇100巻、続篇100巻、第三篇78巻に及ぶ。 文政4年(1821年)、昵懇だった林述斎が松浦邸を訪れ、松浦鎮信(重信)の『武功雑記』の話題となった。述斎が「君もやるべし」と勧め、応じた静山はその夜(11月17日)から筆を執った。折に触れて述斎も内容を見たのみならず、作中に彼の発言が「林子曰く」「林話に」などのかたちで紹介される[1]。 内容は、藩主時代の田沼意次政権や松平定信が主導した寛政の改革の時期に関すること、執筆期に起きているシーボルト事件や大塩平八郎の乱などについての記述を始め、社会風俗、他藩や旗本に関する逸話、人物評、海外事情、果ては魑魅魍魎に関することまでの広い範囲に及んでおり、文学作品としてのみならず江戸時代後期、田沼時代から化政文化期にかけての政治・経済・文化・風俗などを知る文献としても重視されている。
概要
執筆の背景
題材方広寺大仏(京の大仏)は寛政10年(1798年)に落雷による火災で焼失したが、『甲子夜話』に焼失の経過が詳述されている。画像はエンゲルベルト・ケンペルによる方広寺大仏のスケッチ[2]。
人物評
同時代の大名から過去の偉人まで多岐にわたるが、評価は主観的であり、また世間の評判と正反対の場合もみられる[3]。
赤穂義士を「大石の輩」と蔑称で記し[4]、伏見の遊郭に「炬燵やぐらを持来せり」、十人も引き連れて豪遊し「墨硯をつまに持たせ天井に落書[5]いたし候」と放蕩の様子に文句を書いている。静山は公儀や天子様(朝廷)への御奉仕の自身の夜弁当は「僅か一飯三菜のみ」であり、連中が使った金は自身の工面では無かろうとしている[6]。他にも、大高源吾、小野寺十内ら義士の中では比較的著名な人物の悪口も見られる(正篇三十など)。
巷間で「南部の大石内蔵助」ともてはやされた相馬大作も「児戯に類すとも云べし」と酷評されている。「弘前侯の厄、聞くも憂うるばかり也」と数頁にわたり同情が寄せられている[7]。
上杉治憲は「寛政の名君」としてたびたび作中に取り上げられる。大日本帝国の「修身」教科書の原典らしき逸話も多い(正篇三、正篇十七ほか)。ほかに国持・国持並大名としては伊達村候や鍋島治茂などが賞賛されている。
徳川政権下では禁忌と思われる石田三成についても「佐和山の一城主で終わるべき人物にあらじ」と評価する。