甲奴郡(こうぬぐん)は、かつて広島県(備後国)に存在した郡。 1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、下記の区域にあたる。 和銅2年10月8日(709年11月13日)、芦田郡から甲努村を分離して成立。名前の由来については、川沿いに広がる土地を指す「河野」「河内野(カハフチ野)」が訛ったという説や、傾斜した土地を意味する「傾き野(かぶきの)」が変化したという説など諸説存在する。古くから鉄の産地として知られ、平安時代初期には鉄を朝廷に献上していた記録が残る。当初は「かふの」とも読まれた。 知行村数村名
郡域
府中市の一部(上下町松崎を除く上下町各町)
三次市の一部(甲奴町太郎丸・甲奴町抜湯・甲奴町有田・甲奴町福田・甲奴町西野・甲奴町梶田・甲奴町本郷・吉舎町知和・吉舎町上安田)
庄原市の一部(総領町各町)
神石郡神石高原町の一部(階見)
歴史
近世以降の沿革
「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での支配は以下の通り。幕府領は倉敷代官所が管轄。(32村)
幕府領幕府領12村上下村、小堀村、小塚村、黒目村、有福村、福田村、有田村、亀谷村、下領家村、中領家村、上領家村、五箇村
藩領安芸広島藩8村稲草村、木屋村、知和村、梶田村、西野村、本郷村、深江村、矢野村
豊前中津藩12村階見村、岡屋村、斗升村、水永村、佐倉村、矢多田村、井永村、二森村、国留村、抜湯村、太郎丸村、安田村
慶応4年5月16日(1868年7月5日) - 幕府領が倉敷県の管轄となる。
明治4年
7月14日(1871年8月29日) - 廃藩置県により、藩領が広島県、中津県の管轄となる。
11月15日(1871年12月26日) - 第1次府県統合により、全域が広島県の管轄となる。
明治11年(1878年)11月1日 - 郡区町村編制法の広島県での施行により、行政区画としての甲奴郡が発足。「甲奴世羅三谿郡」役所が世羅郡甲山町に設置され、同郡・三谿郡とともに管轄。
明治22年(1889年)4月1日 - 町村制の施行により、以下の各村が発足。[ ]は合併した村。(29村)
上下村、矢野村[深江村・国留村・矢野村・矢多田村]、佐倉村、井永村、水永村、斗升村、岡屋村(現・府中市)
階見村(現・府中市、神石郡神石高原町)
二森村、小塚村、小堀村、有福村(現・府中市)
稲草村、下領家村、木屋村(現・庄原市)
太郎丸村、知和村、安田村、抜湯村、有田村(現・三次市)
五箇村、黒目村、亀谷村、上領家村、中領家村(現・庄原市)
福田村、西野村、梶田村、本郷村(現・三次市)
明治28年(1895年)10月1日(19村)
佐倉村・井永村・水永村・斗升村・岡屋村が合併して清岳村が発足。
福田村・西野村・梶田村・本郷村が合併して甲奴村が発足。
二森村・小塚村・小堀村・有福村が合併して吉野村が発足。
明治30年(1897年)6月5日 - 上下村が町制施行して上下町となる。(1町18村)
明治32年(1899年)7月1日 - 郡制を施行。「芦品神石甲奴郡役所」が芦品郡府中町に設置され、同郡・神石郡とともに管轄[要出典]。上下町に郡役所が置かれる[注釈 1]。
明治45年(1912年)1月1日 - 稲草村・下領家村・木屋村が合併して田総村が発足。(1町16村)
大正元年(1912年)10月1日 - 太郎丸村・知和村・安田村・抜湯村・有田村が合併して上川村が発足。