甲冑
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この項目では、日本の甲冑について説明しています。西洋甲冑については「プレートアーマー」をご覧ください。
赤糸威大鎧(竹虎雀飾)鎌倉時代・13 - 14世紀(春日大社国宝館蔵、国宝樫鳥糸肩赤威胴丸室町時代・15世紀(東京国立博物館所蔵、重要文化財紀州徳川家伝来の金小札紺糸褸紅縅二枚胴具足蟷螂立物、江戸時代・17世紀中頃(ミネアポリス美術館蔵)。2009年当時、日本の甲冑としてはクリスティーズ史上最高額の5500万円で落札された[1]

甲冑(かっちゅう)とは、胴部を守る鎧(甲、よろい)と、頭部を守る兜(冑、かぶと)からなる武具。主として刀剣弓矢を用いた戦闘の際に武士が身につける日本の伝統的な防具である。
歴史
古代(弥生時代から奈良時代まで)

考古学の成果として、弥生時代には「組合式木甲」(前期末から中期中葉)と「刳抜式木甲」(前期末から古墳前期)といった木製甲があり、弥生前期末頃には半島系武器と共に甲冑の出現も確認されている[2][注 1]

古墳時代には、古墳の出土品として「板甲」または「帯金式甲冑」と呼ばれる、帯状鉄板を革綴(かわとじ)ないし鋲留(びょうどめ)して組み立てる日本列島独自形態の甲が出現した。さらに古墳時代中頃からは、大陸の影響を受けた多量の小札(小鉄板)を紐で縅(おど)した「札甲」(胴丸式・裲襠式)が出現する[注 2][3]。なお、冑では衝角付冑眉庇付冑などがある[4]。札甲は、形態こそ異なるが、のちの大鎧(おおよろい)へとつながる可能性が指摘されている[5][注 3]

現在、上記のような古墳時代の甲について、板甲を「短甲」、札甲を「挂甲」と呼ぶことが一般化しているが、これは奈良時代などの文献史料に記された「短甲・挂甲」の名称を、古墳から出土する甲冑に便宜的に当てはめたもので、近年の研究で考古資料の甲冑形態と、元の言葉の意味する甲冑形態が大きく異なっている事が指摘され[7]、用語の使用法に問題があり改めるべきとの意見が出てきている[8]短甲#用語の問題または挂甲#用語の問題を参照)。

奈良時代には史料に『短甲』『挂甲』と呼ばれる甲冑が現れる。『短甲』『挂甲』の語は、聖武天皇崩御77回忌にあたる天平勝宝8歳6月21日(756年7月22日)に、光明皇太后が亡帝の遺品を東大寺に献納した際の目録『東大寺献物帳』に見え、「短甲10具・挂甲90領」が献納されたとある。また、平安時代の『延喜式』などにも記載が見られる。実物が伝わっておらず、どのような形態・外観であったのかよく解っていない。ただし、宮崎隆旨らの文献記述の分析により、史料に見える「挂甲」「短甲」はともに「貫(縅紐)」を用いる製作法であることから両者とも小札甲であり、「挂甲」は脇盾を持つことから考古学にいう「裲襠式」のものを表し、「短甲」は縅紐の量の多さから「胴丸式」のものを表していると考えられている[9][10]。この他に、奈良時代中頃に遣唐使によって大陸から綿襖甲が持ち帰られ、各地の軍団にも導入される。

弥生時代の復元木製甲
国立歴史民俗博物館展示。

三昧塚古墳出土甲冑
茨城県行方市。東京国立博物館展示。

桜ヶ丘古墳出土甲冑
長野県松本市。松本市立考古博物館展示。

私市円山古墳出土甲冑
京都府綾部市。綾部市資料館展示。

御獅子塚古墳出土甲冑
大阪府豊中市。豊中市立郷土資料館展示。

亀山1号墳出土甲冑
兵庫県加西市。東京国立博物館展示。

江田船山古墳出土甲冑
熊本県和水町。東京国立博物館展示。

長持山古墳出土甲冑の復元品(小札甲
大阪府藤井寺市大阪府立近つ飛鳥博物館展示。

中世から近世まで(平安時代から江戸時代最初期まで)当世具足に特徴的な独創的なデザインの兜、胴部分の板札、顔と肩を守る面頬と当世袖が見て取れる。朱漆塗矢筈札紺糸素懸威具足(伝豊臣秀次所用)、16-17世紀、安土桃山時代(サントリー美術館蔵)豊臣秀吉の所用とされる富士御神火文黒黄羅紗陣羽織を参考にして19世紀初頭から中頃の江戸時代に作られた陣羽織。メトロポリタン美術館蔵

平安時代にはとの交通が絶えて国風文化が隆盛し、武士の出現と騎射戦の発展ともに、日本独自の大鎧(当時は単に「鎧」または「着長」と言った)が出現した。従来の挂甲は儀礼的なものとしてだけ残り、綿襖甲は完全に廃れた。騎射戦が戦術の中心であった鎌倉時代までは騎乗の上級武者は大鎧を着用した。これに対して下級の徒歩武者が装着したのが胴丸である。平安時代末期の源平時代に日本の甲冑は最高度に発達し荘重優美を極めたが遺品は多くない[11][12]

鎌倉時代に入ると下級兵卒用に最も簡易な腹当が登場した。鎌倉時代中期の文永・弘安の役の後、戦闘方式が騎射戦中心から白兵戦に移り始めた。これにより騎馬武者も接近して切り合ったりするなど徒歩武者へのより積極的な対応が求められるようになり、大鎧の形状が腰で支えて着用する動きやすい形状に変化していった。鎌倉時代後期には重く機動性に劣る大鎧は敬遠され始めて武士の象徴的な存在となり、騎乗の上級武士が着用する甲冑は胴丸に兜と袖を加えたものが主流になった。また腹当が進化して防御範囲が拡大した腹巻が登場した[11][12]

南北朝時代から室町時代後期には胴丸と腹巻が主流であった。


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