由紀さおり
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ゆき さおり
由紀 さおり
2019年12月13日、旭日小綬章伝達式にて
本名安田 章子(やすだ あきこ)
生年月日 (1946-11-13) 1946年11月13日(77歳)
出生地 日本群馬県桐生市
血液型A型
職業歌手
タレント
女優
活動期間1965年 -
著名な家族安田祥子(実姉)
事務所田辺エージェンシー
安田音楽事務所
公式サイト ⇒由紀さおり・安田祥子 安田音楽事務所 公式サイト
主な作品
テレビドラマ
チョッちゃん』映画
家族ゲーム』バラエティー番組など
8時だョ!全員集合
ドリフ大爆笑
コメディーお江戸でござる
道中でござる

 受賞
毎日映画コンクール
助演女優賞
1983年家族ゲーム
岩谷時子賞
2012年

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由紀 さおり(ゆき さおり、本名・旧芸名:安田 章子(やすだ あきこ)、1946年[注 1]11月13日 - )は、日本歌手タレント女優ナレーター田辺エージェンシー・安田音楽事務所所属。

少女時代から姉(安田祥子)とともに童謡歌手として活躍。1969年東芝音楽工業より「夜明けのスキャット」で現在の芸名で再デビューし150万枚の大ヒットとなった。1970年には、「手紙」も6週連続1位、1970年度年間6位となる大ヒットになり、第12回日本レコード大賞の歌唱賞を受賞。国際的な知名度が高く、2011年に世界50ヵ国以上でCD発売・デジタル配信され、2011年11月2日付のiTunesジャズ・チャート及びカナダiTunesチャート・ワールドミュージックで1位獲得するなど、世界的に高く評価されている歌手である。シンガー・ソング・コメディアンを自称。姉は声楽家の安田祥子で、二人で録音することや、同じステージに立つこともある。
経歴

ひばり児童合唱団出身。洗足学園第一高等学校を経て、洗足学園短期大学英文科卒業[注 2]
安田章子としてデビュー

群馬県桐生市に生まれたが、3歳で横浜市へ移る。少女時代から姉の安田祥子と共に本名の「安田章子」名義で童謡歌手として活躍。1965年にキングレコードから本名名義で「ヒッチハイク娘」にて歌謡曲の歌手としてデビューするが、ヒットに恵まれず停滞の時代に入る。童謡歌手時代からの仕事であるCM曲やテレビ・ラジオ主題歌の吹き込みや、「大人の世界を歌えるように」という修行の意味合いもあったキャバレー・ナイトクラブへの出演を行いながら雌伏の時を過ごす。
由紀さおりとして再出発

1969年東芝音楽工業(現・ユニバーサル ミュージック EMI Records Japanレーベル)より再デビュー作となった「夜明けのスキャット」が発売される。元々TBSラジオの深夜ラジオ番組「夜のバラード」のOPとして制作され、当初はレコード化の予定はなかったが、リスナーからの問い合わせが相次ぎシングルリリースが企画された。しかし由紀は歌手活動で失敗した過去に対する懸念と自らの結婚を控えていた事情もあり再デビューに消極的だったが、新たに歌詞が書き下ろされる間にいずみたくらが説得してレコーディングが実現した[1]。大ヒットとなった「夜明けのスキャット」は、最終的には150万枚[2]ミリオンセラーとなり、この年の暮れには「第20回NHK紅白歌合戦」で念願だったNHK紅白歌合戦初出場を果たす(以降1978年第29回まで10年連続出場)。

当時、新番組として準備されていた『サザエさん』のスタッフは由紀に主題歌の歌唱を依頼するつもりだったが、「夜明けのスキャット」での再デビューの時期と重なり、断念したという[3]

1970年には、「手紙」も6週連続1位、1970年度年間6位となる大ヒットになり、第12回日本レコード大賞の歌唱賞を受賞した。その後も「生きがい」「故郷」「ルーム・ライト (室内灯)」「挽歌」「ふらりふられて」「う・ふ・ふ」「トーキョー・バビロン」などの歌謡曲を世に送り出し、その確かな歌声は「酔い覚ましの清涼剤」との評価を受けた。

1973年2月11日広島市で行われた営業イベントの最中、客席から投げ込まれた紙テープの芯のようなものが額に当たり、5針縫うケガを負う[4]。同年末、「恋文」で第15回日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞した。
コメディエンヌ(喜劇)・女優・司会など

歌手としての人気の一方、タレント性を見込まれ、バラエティー番組に多数出演した。特に『8時だョ!全員集合』で共演したいかりや長介からの薫陶を受けコメディエンヌとしての才能も開花し、『ドリフ大爆笑』においてはゲストとして最多の出演数となり、コントの「オチ」を任せられるなど主にいかりやの相方として準レギュラーに近い立場となった。

1995年から2006年にかけては『コメディーお江戸でござる』や『道中でござる』にも準レギュラー出演し、伊東四朗と息の合った掛け合いを見せた。

1980年代にはテレビ司会者・タレント・女優としての活躍も目立ち、彼女のマルチな才能がさらに発揮されていく。1982年には『おもしろサンデー』へ桂文珍と共に司会として出演。1983年には松田優作主演の『家族ゲーム』でお惚けな母親役を演じ、日本アカデミー賞助演女優賞を受賞、1987年には朝の連続テレビ小説チョッちゃん』で主人公の母親役を演じ、流暢な方言を披露した。
姉との歌手活動など

1985年には童謡アルバム『あの時、この歌』を発表し、1986年より姉・安田祥子と共に童謡コンサートをスタートさせ、徐々に歌手活動に再び重点を置くようになる。同年の暮れには第28回日本レコード大賞企画賞を受賞、童謡ブームの火つけ役となる。1987年には「第38回NHK紅白歌合戦」に出場。NHK紅白歌合戦に9年ぶりに復帰し、以降2001年の「第52回NHK紅白歌合戦」まで紅白の常連として出演した。なお、1992年第43回では自身唯一の紅組トリを務めている。また2000年には、映画『ドラえもん のび太の太陽王伝説』の主題歌「この星のどこかで」を、安田と共に歌っている。

実姉の安田とのレパートリーは童謡・唱歌に留まらず、オリジナル楽曲、歌謡曲、クラシック、アニメ主題歌など多ジャンルに渡っており、特にスキャットで唄った「トルコ行進曲」は1997年の「第48回NHK紅白歌合戦」において披露されたことで一躍全国に認知。X JAPANTOSHIも「由紀と言ったら、トルコ行進曲」と歌番組共演時にリクエストするなど姉妹の代表曲として知られている。

現在でも各地で精力的にコンサートを行う一方、女優・タレントとしての活動も盛んに行っている。

由紀さおりに改名してから40周年となった2009年には、ソロ名義では約四半世紀ぶりのオリジナルアルバム『いきる』を発売。また、ソロコンサートも行い盛況を収めた。「今後は姉妹名義の活動と並行しながら、(歌手としての)ソロ活動にも力を入れていく。21世紀の歌謡曲を歌っていきたい」と発言している。2012年、紫綬褒章[注 3]受章[5]。また同年の「第63回NHK紅白歌合戦」にも久々に返り咲き(ソロ歌手としては20年ぶり13回目、紅白出場は11年ぶり)を果たした。2019年、旭日小綬章受章[6][7]。2024年、第45回松尾芸能賞 特別賞を受賞[8]
各国での評価

ピンク・マルティーニとのコラボレーション『1969』が各国で高く評価された。ロンドンとアメリカのステージに、プロモーションも兼ねて立った。2011年に世界50ヵ国以上でCD発売・デジタル配信され、2011年11月2日付のiTunesジャズ・チャート及びカナダiTunesチャート・ワールドミュージックで1位獲得という快挙を達成。さらにギリシャのIFPI総合アルバム・チャートで最高6位、シンガポールのHMVインターナショナル・チャートでは最高18位となった[9][10]。この報道の影響もあって、特に2011年暮れから2012年に掛けて、由紀さおりのテレビ番組への出演が増加していた。

同作は2011年末の第53回日本レコード大賞企画部門、芸術選奨文部科学大臣賞大衆芸能部門を受賞した。なお2012年末の第63回紅白歌合戦では、米国オレゴン州ポートランドから生中継で登場し、ピンク・マルティーニとの共演で由紀自身紅白では43年ぶりに「夜明けのスキャット」を披露した[11]

プライベート

1969年、音楽ディレクター大森昭男と結婚。結婚生活7年目に別居、14年目に離婚成立となった。37歳で子宮筋腫を患い、子宮内膜症も併発。悩んだ末、4年後の41歳の時に子宮を全摘した。ホルモン治療という選択肢もあったが、そのことにより声が変わってしまうことや「自分の声を愛してくれた母を悲しませたくない」との思いから手術を決断した。この手術後にアメリカ在住の柴冨哲也と知り合い、交際。再婚・渡米や歌手引退も考えたが、デビュー直後から個人事務所を起こすなど芸能活動をサポートしてきた母の猛反対を受け、結局母の意見に従った。1999年にその母をで失い、一周忌を終えた2000年、8年間の交際を経て事実婚の関係となる。しかし、由紀は仕事を辞めることができず、日米の遠距離婚の溝は埋められないまま、2006年12月、離別している[12]
エピソード

シンガーソングライター松山千春を発掘したことで知られる元STVラジオディレクター竹田健二が、リリース後もあまり話題とならなかった『夜明けのスキャット』を気に入り、竹田によって札幌のラジオ局で頻繁に流されたことから、東京のラジオ局でも流れるようになり少しずつ認知され始め、大ヒットに繋がったと由紀が証言している。そのため、その意味で由紀は、「竹田さんを通して松山さんとは“兄弟弟子”です」とも述べている[13]

「由紀さおり」の芸名は着物が大好きだった母親が考えたもので、当初は結城紬の「結城」と夏の着物である「」から「結城紗織」という表記だったが、漢字表記だと硬い印象になるので、「由紀さおり」という表記になった[14]

清水ミチコのものまねレパートリーの1人であり、清水のものまねは肯定的に捉えている(「ミチコさんに物まねされて光栄です。本当に嬉しく思います」とコメントを残している)。また、清水が由紀のコンサートに参加したことをきっかけに交流を深めている。

阿佐ヶ谷姉妹のネタのレパートリーにも含まれている。

志村けん2020年コロナで死去した際、若き日の志村について「ドリフの笑いをどう作っていくかってことと、志村さん自身がコメディアンとしてどう自分のニュアンスを作っていくか、それをずうっと、わたしは見させていただいた」「お若かったこともあるけど、ものすごくとんがってて、エキセントリックでどこか狂気に近いような」と振り返っていた[15]

NHK紅白歌合戦出場歴

紅白歌合戦には由紀さおりソロとして13回、姉の
安田祥子とのユニットで10回出場しており、合計23回出場している。

実現に至ったことはないものの、1970年代から幾度となく紅組司会の候補にも挙がった。

由紀さおり(ソロ)として

年度/放送回回曲目出演順対戦相手備考
1969年(昭和44年)/第20回夜明けのスキャット08/23デューク・エイセス
1970年(昭和45年)/第21回2手紙22/25アイ・ジョージ


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