由利徹
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由利 徹
光文社『面白倶楽部』新年号(1959)より
本名奥田 清治
ニックネーム由利ちゃん
生年月日1921年5月13日
没年月日 (1999-05-20) 1999年5月20日(78歳没)
出身地宮城県石巻市
言語日本語
方言東北弁
トリオ名脱線トリオ
相方南利明
八波むと志
活動時期1942年 - 1999年
過去の代表番組時間ですよ
寺内貫太郎一家
がんばれ!!ロボコン
ムー
ムー一族
弟子たこ八郎
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由利 徹(ゆり とおる、1921年大正10年〉5月13日 - 1999年平成11年〉5月20日)は、日本喜劇俳優。本名:奥田 清治(おくだ きよはる)。1950年代半ばからお笑いユニット“脱線トリオ”の一人として有名になり、解散後は喜劇役者、またコメディアンとして東北弁を駆使した言い回しや持ちギャグを用いてお茶の間を沸かせた[1]
来歴

宮城県石巻市出身。大工の親方の次男として生まれる(3男3女の6人きょうだい)。幼少期から茶目っ気があり、現在の石巻市立門脇小学校へ入学すると学芸会で毎年主役を演じた。1930年小学3年次にレビュー劇団を見て感動し、後日家出して入団を希望するが父親に連れ戻されたため断念したことがある[1]

もともとはピストン堀口に憧れてボクサーを目指していたが[2]ムーランルージュ新宿座の芝居に憧れ、1940年昭和15年)、18歳の時に家出して上京し、叔母の家に居候させてもらいながら梱包の仕事に就いた[1]1942年(昭和17年)に伯父の知人の世話によりきっかけをつかんで[2]ムーランルージュ入団[3]。翌1943年(昭和18年)に大日本帝国陸軍応召し、中国華北地方へ赴任[3]

1945年(昭和20年)に帰国し、ムーランルージュに復帰[3]。その後ムーランルージュに森繁久彌が入団し、2人は同じ喜劇役者として共に演劇活動をしていた[1]。ムーランルージュが解散した1951年(昭和26年)の3月帝国劇場公演『マダム貞奴』に出演[3]。しかし新宿セントラル劇場側から帝国劇場よりも高額なギャラを提示されてそれに乗り[4]、同劇場を振り出しとしてストリップ劇場のコントで活躍[3]

この下積み時代の頃、由利は改名をしている。最初の芸名は「南啓二」(自ら名付けた)。その後「宇留木三平」となり、その後「ムリトウル」(「無理通る」に由来)にしようとしたが「この名前では大物になった時に困るだろう」として、一字変えて「由利徹」とした[5]
喜劇役者としてブレイク

1956年昭和31年)に南利明八波むと志とともに『脱線トリオ』を結成[3]1961年(昭和36年)の脱線トリオ解散後は引き続き南利明や佐山俊二と組むなどしていたが、単独での活動が主となっていく[3]。単独での映画出演は1957年昭和32年)には年間本数5本程度だったのが徐々にオファーが増えて、翌1958年昭和33年)から1972年(昭和47年)頃までは年間10本以上(多い時で20本超え)も出演するようになる[1](出演歴について詳しくは下記・外部リンク「映画.com」などを参照)。

1973年(昭和48年)からは、『時間ですよ』(TBS系)や『寺内貫太郎一家』(同)など久世光彦演出・プロデュースによるテレビドラマの常連でもある。他にも多くの映画、ドラマに出演して活躍した。また、1979年(昭和54年)には、日劇公演『雲の上団五郎一座』の4代目座長に就任[6]するなど多忙を極めた。
晩年

1983年(昭和58年)、故郷・石巻市から市民栄誉賞を受賞。受賞式に際し凱旋帰郷した由利は、「学校の成績はビリで、警察にも補導された自分が…。」と感慨深げだったという[1]

1991年(平成3年)4月日本喜劇人協会会長に就任[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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