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田部井 淳子
(たべい じゅんこ)
1985年
生誕 (1939-09-22) 1939年9月22日
日本、福島県田村郡三春町
死没 (2016-10-20) 2016年10月20日(77歳没)
日本、埼玉県川越市
国籍 日本
出身校昭和女子大学英米文学科 卒業
九州大学大学院比較社会文化研究科修士課程 修了
著名な実績
エベレスト登頂(1975年)
日本
6人目/女性1人目6番目/女性1番目
世界
38人目/女性1人目39番目/女性1番目
七大陸最高峰登頂(1992年)
日本
1人目/女性1人目
世界
19人目/女性1人目
受賞グルカ・ダクシン・バフ賞
田部井 淳子(たべい じゅんこ、1939年〈昭和14年〉9月22日 - 2016年〈平成28年〉10月20日[2][3])は、日本の登山家。福島県田村郡三春町出身。既婚。一男一女あり。旧姓は石橋[4]。
女性として世界で初めて世界最高峰エベレストおよび七大陸最高峰への登頂に成功したことで知られる。 三春小学校卒業。小学4年生の時に那須の茶臼岳に登ったことが(一説には福島・安達太良山とも)登山家への意識の芽生えになったと言われている[5]。福島県立田村高等学校卒業。1962年、昭和女子大学英米文学科卒業。日本物理学会で学会誌の編集に従事しながら社会人の山岳会に入会し、登山活動に力を注ぐ。以後数年間、谷川岳や穂高岳でのクライミングに熱中した。1965年、佐宗ルミエ
プロフィール
登山・アウトドアの活動が趣味の田部井政伸と山で出会い交際、1967年に結婚した。
1969年、「女子だけで海外遠征を」を合い言葉に女子登攀クラブを設立した。翌年にアンナプルナIII峰(7555m)に遠征して登頂に成功した。
1975年、エベレスト日本女子登山隊 副隊長兼登攀隊長として、女性で世界初の世界最高峰エベレスト8848m(ネパール名:サガルマータ、チベット名:チョモランマ)登頂に成功。その後、日本女性で登頂したのは難波康子(1996年)で、田部井が登頂成功した21年後である。ネパール王国から最高勲章グルカ・ダクシン・バフ賞、文部省スポーツ功労賞、日本スポーツ賞、朝日体育賞。
1988年、福島県民栄誉賞第1号、埼玉県民栄誉賞、川越市民栄誉賞、三春町名誉町民、エイボンスポーツ賞を受賞した。
1992年、1988年のマッキンリー、1991年のビンソンマシフに次いでエルブルス山に登頂し、女性で世界初の七大陸最高峰登頂者となった。同年文部省スポーツ功労賞を、1995年に内閣総理大臣賞を受賞した。1999年、旧ソ連7000メートル峰5座の登頂により、スノー・レオパードの称号を得た(日本女性初)。
2000年3月、九州大学大学院比較社会文化研究科修士課程を修了した。研究テーマはエベレストのゴミ問題だった。年7?8回海外登山に出かけるかたわら、山岳環境保護団体・ ⇒HAT-J(ハット・ジェー)の代表を務めた。
2016年7月23日、 ⇒HAT-Jが主催する福島県の小学生を対象としたネイチャーカレッジにて福島県雄国山登山に参加、これが生涯最後の登頂となった。2016年7月27日、東日本大震災被災者への支援活動として東北地方の高校生らとともに富士登山に参加し、これが生涯最後の登山となった。7合目で断念したため登頂には至らなかった[3]。
2018年、第1回ネパール社会貢献者表彰を贈られる[7]。
2019年、田部井にちなんで、国際天文学連合は冥王星の山に「Tabei Montes」と命名[8]。 エベレスト登山の費用は当時、総額4300万円(自己負担150万円)。準備期間は実質4年。荷物を軽くするために乾燥食品を持参した。高所訓練中、隊長の久野英子
エベレストの女性初登頂
頂上アタックのため,第四キャンプには登頂予定の田部井淳子と渡辺百合子が待機していたが、荷揚げを予定していたシェルパ六人が高山病のため荷揚げが出来ず、酸素ボンベの不足が決定的になった。隊長の久野英子はアタッカーとして田部井淳子を指名し登頂に成功した。[9]
企業からの献金を使わないという方針転換で行われたので予算が減少、当初2回アタックの予定が1回に変更になった。
ヒラリー・ステップを見たときに、髪の毛が逆立ったと表現した。
エピソード
登山で「もうダメだ」と思ったことが3回あり、いずれも雪崩に巻き込まれたときである。1度目はエベレストの第二キャンプ(6500m)でテントごと雪崩に埋められ、2度目は1986年にポベーダ山(トムール)の雪崩で600m流され、3度目は、その夜に再び近くを通過した雪崩の爆風に襲われ、テントごと吹き飛ばされた[10]。ポペーダ山では1999年に登ったときにも雪崩がテントを襲ったが、早朝に出発していたため助かった[10]。
1969年冬に登った谷川岳一ノ倉沢凹状岩壁は、エベレストよりもつらかったと回想している[11]。
旅行会社が企画する登山ツアーやテレビ・雑誌の登山企画の出演によって謝礼は得ているものの、自分が求める登山ではスポンサーなどによる資金を得ずに自身でお金を支払っていること、ガイド資格などを所持していないことから「登山家が自分の仕事かと言うと、そうではないと思う」とインタビューで答えている[12]。