たなべ せいこ
田辺 聖子
新潮社『旅』第40巻第7号(1966)より
誕生田邉 聖子
1928年3月27日
大阪府大阪市
死没 (2019-06-06) 2019年6月6日(91歳没)
兵庫県神戸市
職業小説家
随筆家
言語日本語
国籍 日本
教育得業士
最終学歴旧制樟蔭女子専門学校
活動期間1956年 - 2018年
ジャンル恋愛小説
歴史小説
随筆
評伝
田辺 聖子(たなべ せいこ、本名:田邉 聖子[1]、1928年3月27日 - 2019年6月6日[2])は、日本の小説家、随筆家。文化功労者、文化勲章受章者。位階は従三位。
大阪府大阪市生まれ。淀之水高等女学校を経て樟蔭女子専門学校(現大阪樟蔭女子大学)国文科卒。恋愛小説などを中心に活動し、第50回芥川龍之介賞などの受賞歴がある。 1928年3月27日、大阪府大阪市に生まれる。父方は広島県福山市の出身で祖父の代から写真館を経営していた[3]。大阪市内に生まれ、大阪の風俗文化に深く親しみながら育ったことが、のちの作風に影響を与えている。因みに北摂の新興都市については風俗文化が乏しいと評している。 幼少時は古典文学に親しみ、多くの少女小説を愛読した。戦時中は愛国心にあふれた軍国少女としての時代を過ごし、戦争で死ぬことを本望としていた。1943年『少女の友』の作文欄で川端康成の選により掲載された「さら」が最初の活字作品。敗戦後はその反動と喪失感から複雑な思いを抱く中で古典文学の世界に癒しを見出した。樟蔭女子専門学校国文科を卒業後[4]、大阪の金物問屋に勤めながら文芸同人の『文芸首都』『大阪文学』に参加し、『花狩』はラジオドラマに採用され放送作家となった時期もある。1955年から1957年にかけて、半年間ずつ2度、大阪文学学校の夜間部
略歴
1956年に上梓した『虹』で大阪市民文芸賞を受賞してからは本格的な作家活動に入り、恋愛をテーマにした小説や大阪弁を用いた一種の方言文学の制作に取り組んだ。1964年に「感傷旅行」で第50回芥川賞に選出され、若手女流作家の寵児となる。以降は人気作家として多くの執筆依頼を受けていくが、純文学の賞である芥川賞の受賞者としての立場を枷に感じ、後年に「直木賞の方が欲しかった」と冗談含みで語っている。1987年の第97回直木賞から2004年第132回まで直木賞の選考委員を務めた。
次第に大衆小説へと軸足を移し、より身近な設定で恋愛小説や社会風刺的なエッセイなどを精力的に執筆する。また古典文学の流れから歴史小説にも活躍の場を広げ、同じ大阪出身の歴史小説家である司馬遼太郎とも親睦を結んでいるほか、自身も江戸時代の俳諧師・小林一茶の生涯を描いた『ひねくれ一茶』で吉川英治文学賞を受賞している。小松左京や筒井康隆ら関西SF作家たちとの交際も長く、『おせいさんの落語』は彼らも顔負けの奔放なイマジネーションを駆使した奇想小説集であり、連作短編集『お聖どん・アドベンチャー』の題は筒井のアイディアである。1995年に紫綬褒章を受章する(67歳)。2000年に文化功労者。
2006年にはエッセイなどをもとにした朝の連続テレビ小説『芋たこなんきん』(NHK大阪放送局制作)が作られた。2007年に母校の大阪樟蔭女子大学小阪キャンパス図書館内に田辺聖子文学館が開館。長年の執筆活動を称えて、2008年に文化勲章を授与された。2009年には著作をもとにした朗読劇「田辺聖子の世界」が公開され、3月30日と31日には銀座博品館劇場で、同年5月9日には兵庫県立芸術文化センターで、いずれも萬田久子主演で上演された。
2019年6月6日、総胆管結石による胆管炎で神戸市内の病院において死去。91歳だった。死没日をもって従三位に叙される[1][5]。
人物
30代後半まで独身だったが、医師の川野純夫(1924?2002)と知り合い、1966年に結婚(婚姻の届出はせず事実婚)。2002年に死別するまで36年間連れ添った。
田辺が文学仲間の川野彰子(1964年死去)への追悼文を寄せたことが縁となり、夫だった川野と知り合った。川野は子ども4人、両親、弟、妹と同居の大家族だった。
週刊文春に連載した一連の随筆を「カモカ・シリーズ」(1971年10月 - 1987年6月)と呼ぶ[6]。足かけ17年続いた人気連載で、しばしば「おせいさん」と「カモカのおっちゃん」[7]の対話形式となっている。
「カモカのおっちゃん」は当初は架空の人物という設定だったが、週刊文春でイラストを担当した高橋孟が、川野をモデルに描いたことから、カモカ=川野という扱いになったという[8]。
1977年から8年間、夫や知人らと「カモカ連」として徳島の阿波踊りに参加し、踊った[9]。
1976年に伊丹市へ引越し、1995年には阪神・淡路大震災を経験。後に震災時の経験をまとめた著書『ナンギやけれど…わたしの震災記』を発表する。
伊丹市からは後に名誉市民を授与され、伊丹市立図書館新本館の名誉館長に就任している[10]。
無類のスヌーピーグッズ愛好家であったのは、そこはかとなく顔が似ていたからである。
宝塚歌劇ファンでもあり、自著『隼別王子の叛乱』『新源氏物語』『舞え舞え蝸牛 新・落窪物語』などの作品が宝塚で舞台化された[11]。
「必殺シリーズ」のファンとしても有名で、劇場版パンフレットにエッセイを寄せたり、『必殺仕事人III』においてはその方向性に苦言を呈し、それを聞いたプロデューサーが番組内容を修正することがあった。