田辺朔郎
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田辺朔郎

田辺 朔郎(たなべ さくろう、1861年12月2日文久元年11月1日) - 1944年昭和19年)9月5日)は、日本土木技術者工学者琵琶湖疏水や日本初の水力発電所の建設、関門海底トンネルの提言を行うなど、日本の近代土木工学の礎を築いた[1]北海道官設鉄道敷設部長として北海道の幹線鉄道開発に着手し[2]狩勝峠の名づけを行った。

オープンストリートマップに田辺朔郎の地図があります。

略歴

幕臣田辺孫次郎(忠篤)とふき子の長男として東京市の根津愛染町に生まれる[3][4]。生後9か月で父親が病死し、家督を継ぐ[3]。叔父の田辺太一が後見人となり、5歳から大久保敢斎より漢学を、福地源一郎より洋学を学ぶ。沼津兵学校一等教授に着任した太一に伴って明治2年に沼津に同行し、翌年同兵学校付属小学校に入学したが、明治4年に太一が外務省に出仕となったため、朔郎一家も湯島天神町に転居し、近くにあった南部藩の共慣義塾で英語・数学・漢学を学ぶ。明治6年に岩倉遣欧使節団の一等書記官として洋行していた太一が帰国し、横浜港へ迎えに行った際に外国汽船ゴールデンエイジ号の機関室で蒸気エンジンを見たことで工学に興味をもち、科学者を志して明治8年に工学寮付属小学校へ転校[3][5]。明治10年に工部大学校(工学寮より改称)に進み土木工学を専攻[3]

在学中に、京都府知事北垣国道が、遷都で疲弊した京都の活性化のために、角倉了以角倉素庵時代からの長年の懸案だった琵琶湖疏水工事を天皇下賜金で断行することを知り、1881年(明治14年)に卒業研究として京都へ調査旅行に赴き、卒業論文「琵琶湖疏水工事の計画」を完成させる[3][6]。のちに同論文は海外雑誌にも掲載され[6]イギリス土木学会の最高賞であるテルフォード賞を授与された[2][7]大鳥圭介工科大学校学長の推薦により、1883年(明治16年)に卒業と同時に京都府の御用掛に採用され、弱冠21歳で大工事である琵琶湖疏水の担当となる[8]。工事途中の1888年(明治21年)に議員の高木文平とともに渡米し、ダムや運河の水力利用で世界的な製紙の町となったホルヨーク (マサチューセッツ州)や世界初の水力発電を実現したアスペン鉱山を視察し、当初予定の水車動力を水力発電に変更し、蹴上発電所を創設。この変更は、のちの京都の近代産業化に大いに寄与した[2][6]

1890年(明治23年)の第一疏水完成後、帝国大学工科大学(工部大学校より改称)の教授に任命されて帰京[3]。同年、榎本武揚の媒酌で北垣の長女静子と結婚[9]。北海道庁長官に就任した北垣の要請で、北海道全道に1000マイル(約1600km)の幹線鉄道敷設計画の調査に着手し、計画・建設に携わる[2][10]


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