田辺元
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田邊 元
生誕 (1885-02-03) 1885年2月3日
日本東京府
死没 (1962-04-29) 1962年4月29日(77歳没)
日本
時代19世紀の哲学
20世紀の哲学
地域日本哲学
学派京都学派
研究分野形而上学存在論
倫理学
数理哲学
物理哲学
実存主義
影響を受けた人物

西田幾多郎
イマヌエル・カント
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル
ステファヌ・マラルメ
アンリ・ポアンカレ
マックス・プランク
エトムント・フッサール
マルティン・ハイデッガー
ポール・ヴァレリー
その他多数

影響を与えた人物

西谷啓治
辻村公一
高山岩男
唐木順三
土井虎賀寿
梅原猛
その他多数

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田辺 元(たなべ はじめ、1885年明治18年)2月3日 - 1962年昭和37年)4月29日)は、日本の哲学者。旧字体で表記した場合は田邊 元。西田幾多郎とともに京都学派を代表する思想家京都大学名誉教授。1947年帝国学士院会員、1950年文化勲章受章。
経歴

東京に生まれる。父は、東京の開成中学の校長を務め、逗子開成鎌倉女学院を設立した田辺新之助。弟は黒田清輝に学んだ東京美術学校教授の田邊至。ピエール・ベール著作集の翻訳などで知られる東京都立大学教授、仏文学者野沢協は甥。なお、田邊の妻・千代(海軍教授・蘆野敬三郎娘)は藤村操の従姉妹である。したがって田邊がのちに対決することになる西田幾多郎の最初の全集の編者に名を連ねている安倍能成と田邊は、義理の従兄弟同士となる[1]。安倍は藤村の妹を妻としているからである。

東京帝国大学理科に入学後、文科哲学科に転科、卒業。転科には、同様の軌跡を辿った一高時代の狩野亨吉校長に相談にのってもらった。1913年、沢柳政太郎総長下の東北帝国大学講師に就任。1916年、19歳の蘆野千代と結婚。1918年「数理哲学研究」で博士号取得。翌年京都帝国大学教授の西田幾多郎は、みずからの後継者として田辺を京大に招聘して助教授として迎え入れた。田辺の処女論文1910年「措定判断に就いて」には既に西田哲学の影響が見えるという意見がある[2]。その第2論文1913年「物理学的認識に於ける記載の意義」からは、西田哲学への明示的言及が始まる。西田の『善の研究』が書籍として出版(1911年)される以前、その思想が専門誌で発表されたばかりの時期に田辺の処女論文は出版されているので、田辺は西田哲学の最初の理解者の一人といえる[3]。1922-3年には文部省在外研究員としてドイツに留学し、フッサールハイデガー、オスカー・ベッカー(ドイツ語版)などと交流した。1924年1月帰朝。

1945年3月京都大学教授を退官し、終戦間際の7月に浅間山北麓の群馬県吾妻郡長野原町北軽井沢に病妻を抱えて移住し、以後ほとんど当地で隠遁的生活を送り、1950年文化勲章受章の際さえ代理で済ませた[4]。寒冷地での健康を心配した門下生の下村寅太郎唐木順三が温暖な箱根への転地を勧めても、固辞した。弟子の高山岩男が隠遁の理由を直接尋ねたところ、「下界に下りてアメリカ兵や敗戦後の日本人の頽廃を見るのが耐えられぬこと」、「帝国大学教授として日本を悲運に導いた応分の責任を感じ、この責任を感じれば感ずるほど、畳の上で楽な往生を遂げる資格はない」と考えたからであると答えた[5]

1948年『懺悔道としての哲学』を発表した際には、日本の戦争責任を懺悔道という捉えようのない普遍の中に解消してしまったとの批判もあった[6]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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