田端文士村
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田端文士村(たばたぶんしむら)は、明治時代末期から昭和初期頃までの間、東京府北豊島郡滝野川町字田端(現在の東京都北区田端)近辺に多くの文士や芸術家達が集まり、いわゆる文士村が形成されていた地域の呼称である[1]
歴史
芸術家の村として小杉未醒(方庵)板谷波山

江戸時代まで田端村(現:北区田端)近辺は江戸近郊の農村であった。特に大根里芋が名産品であった[2]。明治時代に入り、1888年(明治21年)には田端村は近隣の村と合併し滝野川村となったものの、田畑と雑木林が豊かな農村地帯であったことには変わりがなかった。しかし、その前年の1887年(明治20年)に上野東京美術学校(現在の東京芸術大学)が出来ると、そこへ通う下宿生が近隣である田端の地に暮らすようになる[2]

1896年(明治29年)には東北本線(京浜東北線)の駅として田端駅が開業し、また1903年(明治36年)には豊島線(現在の山手線の一部)が開通すると、次第に駅周辺に人口が集まるようになってくる。田端は農村から徐々に住宅地へ変わりつつあった[2]

そのような折、田端文士村の火付け役とも言える画家小杉未醒(方庵)が1901年(明治34年)に、陶芸家板谷波山が1903年(明治36年)にそれぞれ田端の地に暮らす。特に板谷波山がこの地に窯を作ったのは、田端文士村の形成の発端になったという指摘もある[3]。というのも、直接的であれ間接的であれ波山がきっかけで、後に中心人物である芥川龍之介室生犀星が田端の地に暮らすことになったからである。芥川は板谷波山の親友・香取秀真と、室生は波山の弟子吉田三郎との関係が田端で起こったことがきっかけであった[3]

小杉未醒も田端文士村の形成に大きな影響を持った。小杉は田端の地に居を構え、1908年(明治41年)頃に「ポプラ倶楽部」という組織を、山県鼎、倉田白羊森田恒友ら田端在住の芸術家たちを誘って結成し、テニス野球を楽しんだ[4]。そして、やがて田端在住の作家達の倶楽部「天狗倶楽部」と合流し、一大組織となった。やがて、これらの交流から同業の画家の間で『方寸』という同人誌が造られ、多くの画家が小杉未醒などの田端在住の画家の家を行き来するようになり、田端近辺で暮らす画家も多くなった。この時代は電話もなければ、電車の本数も少なかったので、同業者は一つの土地に集まっていた方が連絡を取るのには合理的だったという見方がある[5]。他に小杉は作や短歌の制作にも長け[6]、「老荘会」という中国思想を研究する会を造ったり、「道閑会」という田端在住の文士・芸術家達の交流の場にも顔を出したりと、田端文士村の交流には欠かせない人物であった。

このようにして明治から大正にかけて、田端の街は芸術家の「梁山泊」となった。

こうして多くの芸術家が文士より先んじて田端の地に住み、それに触発されて多くの作家や詩人も住むようになり、やがて田端文士村が形成されたといわれている[7]
芥川龍之介と室生犀星芥川龍之介室生犀星

1914年(大正3年)に田端文士村の中心人物となる芥川龍之介が田端に引っ越してくる[8]。当時は田端は芸術家は多くいたものの、文士は冒険小説家の押川春浪が住んでいた程度で皆無に等しかった[9]。また当時の芥川は東京帝国大学の学生で、まだ作家としては無名であった。しかし、同年同級生だった久米正雄らと第三次『新思潮』を発刊、処女作品として「老年」を、次いで後に代表作の一つとなった「羅生門」を発表。1916年(大正5年)には、芥川の名前が一躍世間に知れわたった[10]。特に「」が夏目漱石から絶賛されると、文壇での地位は確固たるものになった。このできごとは多くの文士が田端に住む一つのきっかけにもなった。芥川は当地の芸術家とも交流を密にして、前述のように特に鋳金家・香取秀真とは親交が深かったともいわれている。

さらに1917年(大正6年)室生犀星が当地で詩誌『感情』を創刊した。室生が田端の地を選んだのは、当地に住んでいた・吉田三郎の存在が大きかったといわれている[11]。この『感情』には室生犀星の盟友・萩原朔太郎も加わっている[12]

室生犀星も田端文士村の一翼を担った。ほどなくして、当地在住の芥川龍之介を知る[13]

両者は交流し、時には互いにライバル心を燃やしながらも田端文士村の作家たちの交流の要となり続けた[14]

1919年(大正8年)頃になると芥川が中心となって「道閑会」という田端在住の作家と芸術家達のとの親睦会が始まる。メンバーには、久保田万太郎山本鼎や、小杉未醒らがいた[15]

またこの頃から芥川龍之介の書斎は「我鬼窟」と呼ばれ、面会日と決めていた毎週日曜日になると多くの文人達や芸術家が彼のもとに来たといわれている[16]。特に画家・小穴隆一とは親交を密にした[17]
関東大震災

1923年(大正12年)に発生した関東大震災は東京に壊滅的な被害をもたらした。田端は地盤が比較的強固だったため、幸いにもさほど被害はなかった[18]。しかし、この震災がきっかけで東京市内から多くの人が移住し、田端付近はベッドタウン化していく。

室生犀星は同年金沢へ一時的に引越し、その住居には芥川龍之介の斡旋で菊池寛が住んだ[19]。さらに同年には堀辰雄も田端に移住[20]。芥川に気に入れられ、堀は芥川や室生と親交を結んだ[21]

室生もまた1925年(大正14年)に田端の地へ再び移住。盟友・萩原朔太郎を田端の地に呼び、交流を深めた。この頃萩原の家には室生の他に芥川や平木二六、中野重治などの田端在住の若い詩人もよく訪れた[22]。芥川と室生そして萩原の三人で遊んだこともあったという[23]

萩原は数か月しか田端に在住しなかったが[24]、それと入れ替わるように土屋文明が田端の地に来る[25]。また、この頃一時期、小林秀雄も居を構えた[26]
『驢馬』の創刊

1926年(大正15年)に田端文士村から一つの雑誌が登場した。『驢馬』という雑誌である。中野重治、堀辰雄、窪川鶴次郎西沢隆二ら室生犀星の弟子というべき作家・詩人らによって作られた。題字は下嶋勲が手がけた。編集や打ち合わせは田端の高台のとある一室で行われていた[27]

創刊号には芥川や小穴隆一らの俳句も乗り、まさに田端文士村の文士が結集した本であった。驢馬は1928年(昭和3年)まで続いた[28]

この驢馬の編集の打ち合わせの後、文士達は打ち上げの食事を田端の「カフェー紅緑」というレストランでよく行っていた。その店の女給に田島いね子という女性がいた。彼女も作家志望でかねてより芥川とも面識があった。また風貌などから文士達は彼女の虜になり、やがて窪川鶴次郎と結ばれ、窪川いね子の名で作家デビューすることになった。


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