田淵行男
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伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。人物の伝記は流れのあるまとまった文章で記述し、年譜は補助的な使用にとどめてください。(2019年1月)

田淵 行男(たぶち ゆきお、1905年6月4日 - 1989年5月30日)は、山岳写真家。高山蝶研究家。

「すべての昆虫少年にとってのヒーロー」[1]
生涯

鳥取県日野郡黒坂村(現日野町)に父吉弥、母阿又の次男(第四子)として誕生。

1909年 9月2日、母阿又、死去。1911年 3月、父吉弥、溝口町分署長になる。4月、行男、日野郡溝口尋常小学校入学。5月31日、父吉弥、足立よしと再婚。

1918年 3月、岩美郡岩美尋常小学校卒業。4月、境高等小学校入学。5月21日、父吉弥死去。その後、継母よしが実家に帰り、6月、台湾台北市に住む実母の親戚一家に預けられる。

1919年 継母よし死去。叔母スイらと共に台湾から帰国し、東京滝野川に居住。神田の錦城中学校(現・錦城学園高等学校)に編入。

1920年 学習院中等科助教授だった兄・行實の一家に引き取られ、学習院宿舎に居住。

1923年 このころより、チョウの細密画を本格的に描き始める。

1924年 3月、錦城中学校卒業。4月、東京高等師範学校(後の・東京教育大学、現・筑波大学)博物科に入学。特待生になる。

1927年 夏休みにギフチョウ研究のため、岐阜県の名和昆虫研究所、現・名和昆虫博物館を訪ねる。

1928年 3月、東京高等師範学校。4月、富山県新湊町(現射水市)の県立射水中学校(現・富山県立新湊高等学校)に奉職。大坂住まいであった山村日出子(1918年以来預けられていた親戚一家の娘)と結婚し、単身赴任のかたちで教鞭をとる。

1930年 山ガイドたちとの交友から安曇野とのつきあいがはじまる。9月8日、東京府立第二高等女学校(現・都立竹早高等学校)及び東京府女子師範学校(現・東京学芸大学)兼務の教諭となる。在任中には、学業指導のかたわら生徒を引率し北アルプスや近隣の集団登山を指導した。

1937年 東京府立第二高等女学校及び東京府立女子師範学校の教壇を去り、大阪で妻日出子の母スイの進学塾を手伝う。その後、元同僚の紹介により東京で理科教材のセールスをする。

1938年 3月5日、田淵を含め3人がそれぞれ350円ずつ出資し、東京の本郷で「日本学術写真社」を興す。

1939年 6月1日、独逸学協会中学校(現・獨協中学校・高等学校)の博物学教師となる。同校では生物部と写真部の活動を指導。山岳部(名称はコッヘルクラブ)の発足を導いた。

1943年 5月31日、独逸学協会中学校辞職。日本映画社教育映画部製作課教育映画係に入る。

1945年 3月31日、東京下町方面大空襲によって、田淵の家は都市疎開実施要綱の「建物疎開」の指令を受ける。7月山案内人寺島嘉多治の紹介で長野県南安曇郡西穂高村大字牧(現在の安曇野市穂高牧)の藤原源吾氏方の納屋(蚕室の2階)に疎開。この頃からFFD株式会社(教育スライド制作会社)などとフリーランス契約を結び、理科教材の制作、撮影などを手がける。(1961年まで)

1946年 5月2日、白馬山麓にギフチョウが豊かに棲みついている事実を発見。 

1950年 7月、『アサヒカメラ』(7月号)に表紙と特集に3枚の組写真「夏の山」が掲載される。12月、『アサヒカメラ』(12月号)に国際写真サロン入選作品として、「初冬の浅間」が発表される。

1951年 『田淵行男 山岳写真傑作集』(朝日新聞社、アサヒカメラ臨時増刊)刊行。9月、『科学朝日』(9月号)に「高山蝶をたずねて」を発表。これが田淵の高山蝶研究第一声であった。

1952年 写真集『わが山旅』(誠文堂新光社)刊行。6月、雑誌『子供の科学』(誠文堂新光社)の編集長で、名著『昆虫の生態』(誠文堂新光社、1951年)の著者、田村栄が田淵宅を訪ねる。

1957年 初の生態写真集『ヒメギフチョウ』(誠文堂新光社)刊行。日本昆虫学会創立40周年記念展「世界の昆虫展」(東京日本橋白木屋/10月1日?13日)にチョウの細密画147点と高山蝶の生態写真114点を出品。

1958年 写真集『尾根路』(朋文堂 朋文堂山岳文庫)、写真集『山』(平凡社 世界写真作家シリーズ)刊行。


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